中原進出を説く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 17:30 UTC 版)
348年11月、慕容皝がこの世を去り、嫡男である慕容儁が即位した。封奕は五材将軍に任じられ、国相の役職についてもそのまま継続となった。 349年4月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士の後継争いで内乱が勃発し、国内は大混乱に陥った。5月、前燕の群臣はみな後趙の混乱を中原奪取の絶好の機会であると上書し、慕容儁へ出兵を請うたが、慕容儁はなかなか決心がつかなかった。その為、封奕を呼び寄せて出兵の是非について問うと、封奕は「用兵の道において、敵が強ければ智を用い、敵が弱ければ勢を用います。これにより、大をもって小を呑むのは狼が豚を食べるが如しであり、治をもって乱を終わらせるのは太陽が雪を融かすが如く容易な事であります。大王(前燕の君主)は代々徳を積んで仁を累ね、兵士を訓練して強化してこられました。石虎は暴逆を極め、死しても誰からも悲しまれず、子孫は国を争い、上も下も乖乱しております。中国の民は泥にまみれ火に焼かれるような苦しみを味わっており、首を長くして苦境からの脱却を待ち望んでおります。大王がもし兵を挙げて南へ進み、まず薊城を取り、次いで鄴都を方針に定めれば、その威徳は宣耀され、遺民は懐撫される事でしょう。そうすれば、人々は必ずや老若を問わずに大王を迎え入れ。凶党はその旗を見ただけで潰散します。どうして破れない事がありましょうか!」と説き、中原奪取を強く勧めた。慕容儁は皆の意見が一つであるのを見て大いに笑い、遂に出征を決断すると、翌年2月より三軍を率いて進出を開始した。
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