不安と流転の日々
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1934年(昭和9年)1月に何度も自殺未遂を繰り返していた親友・長島萃が脳炎で発狂し夭折したことに衝撃を受け、2月に「長島の死に就て」を『紀元』に発表。同月には河田誠一(詩人)も急性肋膜炎で死去した。この2人の友人の死は、安吾に生命の不安を与え、生活態度にも影響を及ぼした。安吾は前年に知り合った蒲田新宿の酒場ボヘミアンのお安さんと3月から半ば同棲生活に入り、のちに大森区堤方町555(現・大田区中央)の十二天アパートに移住。5月、「姦淫に寄す」を『行動』に発表。9月に戯曲「麓」(未完)を『新潮』に発表するが、文学的転機に悩み、夏には越前、北陸地方に放浪し、流転の生活を送る。 1935年(昭和10年)4月に「蒼茫夢」、5月に随筆「枯淡の風格を排す」を『作品』に発表。徳田秋声を批判したこの随筆が縁で、尾崎士郎と知り合う。6月に『黒谷村』(「木枯の酒倉から」など6編収録)を竹村書房から刊行し、出版記念会を開く。新鹿沢温泉に赴き、長野県小県郡弥津村(現・東御市)の奈良原鉱泉で一夏を過ごし、7月、「金談にからまる詩的要素の神秘性について」を『作品』、8月に「逃げたい心」を『文藝春秋』に発表。この小説の主人公の逃走(蒸発)願望は、太宰治などの同時代作家に共通するものであった。12月、母や母性について書いた「をみな」を『作品』に発表。お安さんと別離し、蒲田区安方町の家へ戻る。 1936年(昭和11年)3月、本郷の菊富士ホテルで執筆中に矢田津世子が来訪し再会するが、その後矢田から絶縁の手紙が来る。このことや同月24日に牧野信一の自殺に衝撃を受けたことから、1月から『文學界』に連載していた長編「狼園」を中断し、5月に牧野への追悼随筆「牧野さんの祭典によせて」を『早稲田文学』、「牧野さんの死」を『作品』に発表する。6月には、5年間交際していた恋人・矢田津世子に絶縁の手紙を送った。矢田との間には肉体関係はなく、5年目の冬に一度接吻しただけだという。11月末から、矢田との恋愛を主題にした長編「吹雪物語」の執筆に取りかかり、翌1937年(昭和12年)2月、尾崎士郎に見送られて東京を発つ。京都府京都市伏見区稲荷鳥居前町22に下宿し、「吹雪物語」の執筆に専念しながらも絶望に陥り、移った下宿先の上田食堂の二階に碁会所を開くなど囲碁三昧、飲酒に明け暮らす生活を送る。
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