中街道 (下ツ道)
下ツ道(古代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:11 UTC 版)
「中街道 (下ツ道)」の記事における「下ツ道(古代)」の解説
7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る大道・下ツ道として整備された。見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。橿原市から大和郡山市にかけては、現在の国道24号の約250m西方に並行する。 北は、那羅山(ならやま)の平坂(ならさか)を越えて山背道(やましろのみち)になり、南は、軽(かる、橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線道で、檜隈(ひのくま)からは西南に向かう巨勢道となり、宇智(うち)を経て紀伊国境の真土山(まつちやま)を越えると紀ノ川沿いの木道(きのみち)に達する。 奈良時代には飛鳥・藤原京と平城京をまっすぐ繋ぐ大道として盛んに利用されたと思われる。しかし長岡京、平安京への遷都の後は衰退して維持されなくなった。その道路敷は現在、一部で寺川などの河道に利用されている。
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下ツ道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 08:40 UTC 版)
詳細は「中街道 (下ツ道)」を参照 下ツ道は、藤原京(現・橿原市)の西京極から、奈良盆地の中央を北上し、平城京(現・奈良市)の朱雀大路となる。道幅は、両側にある側溝の中心間で22.7メートルである。橿原市大軽町と五条野町に跨る見瀬丸山古墳の周濠の西端をかすめて南進している。路面や東西の側溝は、平城宮朱雀門の下層、稗田遺跡、藤原京右京五条四坊などで検出されている。7世紀後半には敷設されていたと考えられている。道路の規模は34.5メートル、路面幅は18メートルで横大路(道路規模は42メートル、路面幅35メートル)に次いで広い。 橿原市から天理市にかけては、現在の国道24号と概ね合致・平行する。近世には中街道と呼ばれるようになった。
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