上院議員時代の概要
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「ジョン・W・ジョンストン」の記事における「上院議員時代の概要」の解説
ジョンストンは、バージニア州が連邦への再加盟を認められることを期待して12月にワシントンD.C.に行った。しかし、それが認められたのは1870年1月26日のことだった。ジョンストンはその直後に上院議員に就任できた。この遅れは議会がバージニア州の代表を議会に受け入れる法案の成立が必要だったからだった。 ジョンストンが1月28日に就任するために到着したとき、幾らかの問題があった。バーモント州のジョージ・F・エドモンズが、ジョンストンがまさしくジョンストンであるかを問題にし、ウェストバージニア州のウェイトマン・T・ウィリーがジョンストンその人であることを請け負い、資格を認めるまで、詐欺が行われていると考えていた。後に自分の前に置かれた文書に署名する段になって、その中身を読んでいなかった。これは鉄の誓いであり、全白人男性は合衆国に対して二度と武器を持たない、あるいはアメリカ連合国を支持しないことを誓うよう求められていた。ジョンストンの隣に座っていたデラウェア州選出のトマス・F・ベイアードが注意していなければ、ジョンストンは「バージニア州民の目に永遠に不名誉なこと」とされていた可能性があった。この宣誓は1867年に違憲だと判断されていたが、実質的に使われなくなったのは1871年になってからだった。当時、ジョンストンはアメリカ連合国に与した唯一の上院議員であり、他の上院議員は全て北部生まれか「合衆国の者」だった。 ジョンストンが上院議員になったとき、バージニアの二大政党は保守派と急進派だった。ジョンソンは戦前のタカ派民主党とホイッグ党の連衡である保守派だった。民主党は昔、ホイッグ党と激しく対立したが、その名前で合流することは望まず、保守党として立った。国政の領域でジョンストンがどちらに就くかは分かっていなかったが、上院は圧倒的に共和党が支配していたので、どちらにしても影響は無かった。当時上院の78議席のうち、民主党は10議席のみだった。ジョンストンが、バージニア州新知事に宛てて出した手紙には「選挙のために、その党や州にたいして裏切り者になる」とあったので、共和党に就くのではという憶測もあった。実際には、共和党大会への正式招待を断り、上下院合同民主党員集会に参加したので、疑いは晴れた。「バージニア州の保守派はワシントンでは民主党である」という宣言だった。 最初の会期は1870年1月26日から1871年3月4日までであり、1871年3月15日に再選され、同年3月4日に始まる任期に就いた。1877年にも三選され、1883年3月4日まで務めた。革命的権利主張委員会の委員となり、第45期と第47期にはその委員長を務めた。第46期では農政委員会の委員長でもあった。 1881年11月、外交問題委員会の委員になった。アメリカ赤十字の創設者クララ・バートンが第一回ジュネーブ会議(国際赤十字の設立)への署名をチェスター・アーサー大統領に求めたとき、アーサーの肯定的な返答にこの委員会が言及され、ジョンストンがその委員の一人であることが記録されている。
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