上平寺城跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:41 UTC 版)
京極館跡の背後の尾根上に築かれた城で、平時の居城ではなく、有事に備えた詰めの城である。最高部の主郭は標高669メートルに位置する。上平寺城という名称からは、当地に同名の寺があったことが想定されるが、それらしき寺院跡は確認されていない。城は主郭、二ノ丸、三ノ丸が南北に連なる連郭式で、主郭と二ノ丸の周囲には土塁をめぐらす。三ノ丸と二ノ丸の間には竪堀を掘り、ここに設けられた土橋を通って二ノ丸へ進むと、両側を土塁で囲まれた虎口構えになっている。三ノ丸手前の斜面には、敵の動きを封じるための畝状竪堀群が掘られ、主郭の北側には尾根を断ち切る大堀切があって、背後の護りを固めている。 大永3年(1523年)の国人一揆後、京極氏は城から撤退している。それから半世紀後の元亀元年(1570年)、浅井長政は美濃の織田信長の侵攻に備えるため、朝倉氏の力を借りて上平寺城を改造した。『信長公記』の同年6月条には、長政が越前衆を呼んで「たけくらべ、かりやす」の両所に要害を構えたとの記事がある。「たけくらべ」は米原市柏原にあった長比城、「かりやす」(苅安)は上平寺城のことである。現在残る畝状竪堀群や大堀切は京極氏時代のものではなく、長政によって整備されたものである。なお、浅井氏の城番の堀秀村が信長に内通したため、上平城は戦わずして開城し、廃絶した。
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