上京とアララギへの参加
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1909年、上京し、伊藤左千夫を訪ねて入門。「アララギ」に参加、斎藤茂吉や古泉千樫らと交流がはじまる。 1910年7月、第七高等学校造士館を卒業。9月、東京帝国大学大学法科大学経済科に入学。本郷の追分にある富士見軒に下宿。子規九周忌歌会に出席して石原純、土屋文明、山宮允らと相知る。10月、盟友・堀内卓造急逝。 1911年、「アララギ」諸同人との交流が深まり、作歌にも熱心になる。1913年島木赤彦との合著歌集『馬鈴薯の花』刊行。『中村憲吉全集』がある。深川不動尊境内の下宿に移る。 1914年(大正3年)、本郷の菊富士本店に下宿。 1915年(大正4年)、東京帝大を卒業。11月、帰郷し、広島県福山市の倉田岩太郎の長女・倉田静子と結婚。静子の母・きくは福山郊外深津の石井英太郎の娘。石井英太郎は広島県議会議員や福山誠之館中学校の初代校長を勤め、きくの妹・大原寿恵子は大原孫三郎の妻となり、後に和歌に興味を持ち1925年には憲吉に師事する。 1916年1月、上京して新居を構えるが、10月に帰郷して家務に就く。11月、第二歌集『林泉集』(アララギ発行所)刊行。 1920年4月、兵庫県西宮市に居を定める。1921年、大阪毎日新聞の経済部記者となる。1923年11月、京都へ行き桂離宮、修学院離宮を拝観。1924年7月、第三歌集『しがらみ』(岩波書店)刊行。1926年4月、大阪毎日新聞社を退社。6月帰郷し、家督を相続して実家の酒造業に携わる。実家の大資産を、惜しみなく「アララギ」への精神的・物質的支援に注ぎ込んだ。また、広大な山林に目を向け、檜、杉の植林にも取り組む。1928年2月、岡山医科大学附属病院を訪れる夫人に同道して岡山へ。その際に弟子で助教授の上代皓三の案内で後楽園を廻る。
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