しまき‐あかひこ【島木赤彦】
島木赤彦
島木赤彦
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島木 赤彦(しまき あかひこ[1]、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。
- ^ 島木の読み方について斎藤茂吉は著書「島木赤彦」(角川書店、昭和24年)において「「シマギ」と濁って発音する者、「シマキ」と清音で発音する者の数は相半ばするが、横山重、藤澤古實氏のごとき赤彦直門の士は、「シマキ」と清んで唱えている。」という趣旨の記載をしている(234〜239頁)。長野県下諏訪町立赤彦記念館また島木赤彦研究会においては「シマキ」の清音で発音することに統一している(島木赤彦研究会報56号、平成23年)。
- ^ 出生地には茅野市説もあり、茅野市豊平下古田公民館の庭には「赤彦生誕地の碑」がある。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)167頁
- ^ 「信濃教育」大正5年6月号(全集第7巻66頁)
- ^ 「信濃教育」大正7年1月号(全集第7巻107頁)
- ^ 「信濃教育」大正8年1月号(全集第7巻160頁)
- ^ 「信濃教育」大正5年6月号(全集7巻69頁)
- ^ 「信濃教育」大正8年1月号(全集7巻160頁)
- ^ 「歌道小見」(全集第3巻182頁「写生」)
- ^ 「歌道小見」(全集第3巻196頁「単純化」)
- ^ 「島木」の名は、赤彦が1914年(大正3年)に渡った八丈島から採って「島の木」という意味で付けたものである(「島木赤彦」斎藤茂吉著、角川書店、昭和24年)。「赤彦」の名は、広丘小学校長在職中、中原(当時)静子との恋愛関係の中から出たものである。「桔梗ヶ原の赤彦」(川合静子著)121頁には、「(赤彦)が(白紙に)「柿の村人」と書き、『この名もいやになったよ。』・・「紅」と「赤」の二字を並べて書き、「赤」の字の下に「彦」という字を書いた。『「赤彦」はどうだい。いい名じゃないかい。』・・『中原さん、去年の9月ごろから、私の心臓に赤の一点がしみつきました。どうしようもありません。私の意志が弱かったのです。どうぞゆるして下さい。』とある。
- ^ “赤彦童謡集 / 財団法人大阪国際児童文学館 子どもの本100選 1868年-1945年”. www.iiclo.or.jp. 2020年5月15日閲覧。
- ^ “福島の児童文学者12 島田忠夫”. 2020年5月15日閲覧。
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