さんがつ‐じけん〔サングワツ‐〕【三月事件】
三月事件
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三月事件(さんがつじけん)とは、1931年(昭和6年)3月20日(金曜日)を期して、日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。橋本欣五郎陸軍参謀本部ロシア班班長ら「桜会」のメンバーが、民間右翼の大川周明・清水行之助らと計画を立案した。だが、最終的には宇垣の同意が得られず未遂に終わった[1]。この計画には参謀本部第2部長・建川美次少将、二宮治重参謀次長、小磯國昭軍務局長も賛同していたとみられる。
- ^ 川田 2014, p. 105.
- ^ 川田 2014, p. 107.
- ^ a b 川田 2011, p. 32.
- ^ a b c 田中 1978, pp. 4–5.
- ^ 中野 1963.
- ^ 中野 1963, pp. 47–48, 50–51.
- ^ a b 川田 2011, p. 33.
- ^ a b 田中 1978, p. 6.
- ^ 中野 1963, pp. 58–59.
- ^ 田中 (1978, p. 6)。参謀本部の機密費は実際には出なかった(同)。
- ^ 大塚 1995, p. 153.
- ^ 田中 1978, pp. 5, 7.
- ^ 大塚 1995, p. 154.
- ^ 田中 1978, p. 11.
- ^ 中野 1963, pp. 56–59.
- ^ 伊藤之雄 (2016). 『元老ー近代日本の真の指導者たち』. 中公新書. p. 238
- ^ 中野 1963, p. 24,93.
- ^ 中野 1963, pp. 90, 93–94.
- ^ 岡田 1975, p. 要頁番号.
- ^ 田中 1978, pp. 9–10.
- ^ 田中, p. 10.
三月事件
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日召たちは、三月事件の少し前頃から桜会の周辺に作られた結社と関係を持ち始めるようになった。1931年 (昭和6年) 3月後半になって「全日本愛国者共同闘争協議会」(通称は愛協) という団体が作られた。 名目上は、左翼勢力に対抗するために右翼勢力の「共同闘争」を訴える団体ではあったが、小沼正の証言によれば実際は「三月事件をもくろんで結成されたもの」で、愛協の内部に作られた前衛隊が三月事件を引き起こすための機動部隊の役割を担うはずだった。血盟団の青年たちは、愛協の前衛隊に所属することが決まった。これは、前衛隊を利用して仲間の勧誘を行うことが目的であって、彼らは愛協自体には何らの意義も見出さなかった。 愛協は、本郷で演説会を開いた後、銀座でデモを行い、前衛隊が騒いで混乱を引き起こそうとしたが、警察にデモの解散を命じられて大衆の扇動に失敗した。結局、橋本欣五郎らによるクーデター計画は未遂に終わり (三月事件)、それに伴い愛協の存在意義もなくなった。愛協の前衛隊に所属した血盟団のメンバーも暇をもてあますようになった。小沼は信州に旅行し、そこで国家主義者たちと交わった。また、古内の元を訪ねてもいる。 この頃には、四元は日召を介して大洗グループと合流し、また、海軍将校たち (古賀清志、山岸宏、三上卓ら) と四元、日召との関係も強まりだしていた。 6月になると日本国民党は内紛で分裂したため、小沼らは国民党に見切りをつけ、行地社に拠点を移した。 行地社を管理していたのは狩野敏 (愛協前衛隊長) で、狩野は7月に、満州事変に呼応して日本国内でもクーデターを起こす計画であることを彼らに漏らした。西田税は大川周明とは仲たがいしていたため、日召や小沼らは、大川周明と西田税のどちらにつくか迷ったが、結局西田を選び、日召は西田をリーダーに担ぐことに決めた。。ただし、数か月後には、血盟団員は日召も含めて西田とたもとを分かつことになる。 小沼ら4人は、7月末から8月にかけて海水浴を口実にして行地社を飛び出し、大川との関係を断った。
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