ローマによる征服後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:00 UTC 版)
地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって併合されアフリカ属州となり、また都市カルタゴの有った場所には新たな植民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。 2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。 1世紀末に造られたカルタゴ円形闘技場(英語版)、2世紀のアントニヌス浴場、その他カルタゴ競技場(キルクス)(英語版)ローマ劇場、ローマ人の住居跡など、現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。 クラウディウス帝は全8巻からなる「カルタゴ史」を書いたが、現在は散逸している。238年、ローマ帝国の皇帝マクシミヌス・トラクスに対してアフリカ属州総督ゴルディアヌスが反乱をおこしたが、カルタゴの戦い(英語版)で鎮圧された。近郊のタガステ(ティムガッド)出身のアウグスティヌスは青年期をカルタゴで過ごし弁論術を学んだ。
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