ロシアの日本語学校とは? わかりやすく解説

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ロシアの日本語学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 04:57 UTC 版)

日本語学校」の記事における「ロシアの日本語学校」の解説

1696年ロシア帝国カムチャツカ半島漂着した大坂出身日本人伝兵衛は、ウラジーミル・アトラソフ探検隊保護された後、モスクワロシア皇帝ピョートル1世拝謁した日本の事情について聞いたピョートル1世日本語学校設立命じ1702年伝兵衛教師とした日本語学校設立され1705年にはサンクトペテルブルク移転したその後1710年に1名、1728年薩摩出身の2名の日本人漂流民が新たに教師となり、薩摩出身権蔵ゴンザ)は日本語学校ボグダノフとともに世界初露日辞典作成した1744年南部藩多賀丸が千島列島温禰古丹島漂着し生存した10名はイルクーツク送られた。そのためロシア政府イルクーツク日本語学校新設し10名はイルクーツク洗礼受けてロシア帰化したのち、日本語教師となったロシアこのように日本語教育に熱心であった理由は、シベリア慢性的な食糧不足日本との交易によって解消しようしたためで、1778年厚岸松前藩役人会談したパベル・レベデフ=ラストチキンは、多賀漂流民から日本語習った通訳伴っていた。多賀漂流10名は1786年までに全員病死しその後多賀漂流民の遺児たちと教え子によって学校維持されたが、生徒数数人減り廃校寸前となった1789年1783年アリューシャン列島漂着した大黒屋光太夫ら5名がイルクーツク到着したロシア政府光太夫一行対しロシア帰化して日本語教師になることを勧めるが、キリル・ラクスマン支援受けた光太夫嘆願により、帰国許可された。しかし、イルクーツク結婚して帰化した新蔵と、病気になり洗礼受けて帰化した庄蔵現地残留しそのうち新蔵日本語教師就任している。 1794年仙台藩若宮丸アリューシャン列島漂着し生存者15名はオホーツク送られた。ここで若宮丸漂流15名は3グループ分かれてイルクーツク送られることになり、善六辰蔵儀兵衛の3名が最初にイルクーツク到着した。3名の世話には新蔵日本語通訳のトゥゴルコフがあたったが、新蔵たちは善六に目をつけて熱心に説得しロシアへ帰化日本語教師就任了承させた。善六は他の2人説得試み辰蔵ロシア帰化するが、帰国強く望んでいた儀兵衛だけは洗礼拒否したため、両者の仲は険悪になった。その後後続の者もイルクーツク到着するが、帰化日本語教師就任応じたのは2名のみであった1803年若宮丸漂流民の帰国許可下り津太夫ら4名は帰国し、9名はロシア残留した帰国者の送還善六ロシア随員として同行することになり、この航海途中善六ニコライ・レザノフとともに露日辞典作成している。 その後イルクーツク日本語学校は、新蔵善六の手によって運営されたが、両者死後である1816年閉鎖されロシアにおける日本語教育1870年まで途絶えることとなった

※この「ロシアの日本語学校」の解説は、「日本語学校」の解説の一部です。
「ロシアの日本語学校」を含む「日本語学校」の記事については、「日本語学校」の概要を参照ください。

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