ロシアの日本語学校
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1696年、ロシア帝国のカムチャツカ半島に漂着した大坂出身の日本人伝兵衛は、ウラジーミル・アトラソフ探検隊に保護された後、モスクワでロシア皇帝ピョートル1世に拝謁した。日本の事情について聞いたピョートル1世は日本語学校の設立を命じ、1702年に伝兵衛を教師とした日本語学校が設立され、1705年にはサンクトペテルブルクに移転した。その後、1710年に1名、1728年に薩摩出身の2名の日本人漂流民が新たに教師となり、薩摩出身の権蔵(ゴンザ)は日本語学校長ボグダノフとともに世界初の露日辞典を作成した。 1744年、南部藩の多賀丸が千島列島の温禰古丹島に漂着し、生存した10名はイルクーツクに送られた。そのためロシア政府はイルクーツクに日本語学校を新設し、10名はイルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化したのち、日本語教師となった。ロシアがこのように日本語教育に熱心であった理由は、シベリアの慢性的な食糧不足を日本との交易によって解消しようとしたためで、1778年に厚岸で松前藩の役人と会談したパベル・レベデフ=ラストチキンは、多賀丸漂流民から日本語を習った通訳を伴っていた。多賀丸漂流民10名は1786年までに全員病死し、その後は多賀丸漂流民の遺児たちと教え子によって学校は維持されたが、生徒数は数人に減り、廃校寸前となった。 1789年、1783年にアリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫ら5名がイルクーツクに到着した。ロシア政府は光太夫一行に対し、ロシアに帰化して日本語教師になることを勧めるが、キリル・ラクスマンの支援を受けた光太夫の嘆願により、帰国が許可された。しかし、イルクーツクで結婚して帰化した新蔵と、病気になり洗礼を受けて帰化した庄蔵は現地に残留し、そのうち新蔵は日本語教師に就任している。 1794年、仙台藩の若宮丸がアリューシャン列島に漂着し、生存者15名はオホーツクに送られた。ここで若宮丸漂流民15名は3グループに分かれてイルクーツクに送られることになり、善六、辰蔵、儀兵衛の3名が最初にイルクーツクに到着した。3名の世話には新蔵と日本語通訳のトゥゴルコフがあたったが、新蔵たちは善六に目をつけて熱心に説得し、ロシアへの帰化と日本語教師就任を了承させた。善六は他の2人の説得を試み、辰蔵もロシアに帰化するが、帰国を強く望んでいた儀兵衛だけは洗礼を拒否したため、両者の仲は険悪になった。その後、後続の者もイルクーツクに到着するが、帰化と日本語教師就任に応じたのは2名のみであった。1803年、若宮丸漂流民の帰国許可が下り、津太夫ら4名は帰国し、9名はロシアに残留した。帰国者の送還に善六はロシア側随員として同行することになり、この航海途中に善六はニコライ・レザノフとともに露日辞典を作成している。 その後もイルクーツクの日本語学校は、新蔵や善六の手によって運営されたが、両者の死後である1816年に閉鎖され、ロシアにおける日本語教育は1870年まで途絶えることとなった。
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