ロシアの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 07:19 UTC 版)
キクスアディの勝利に続いて、トリンギット族のシャーマン、ストーノークウはロシアが必ず軍隊を連れて戻って来ると確信しており、種族の者達に大砲の砲火にも耐えられるよう新しい防御を施すと共に、十分な水の確保も行わせた。強い反対が有ったにも拘わらず、シャーマンの意志が通り、キクスアディは戦争の準備を整えた。シトカから同盟種族に支援を要請する伝令が送られたが反応は無かった。自分達だけでロシア艦隊に対抗するしかなかった。 トリンギット族は、シスキノーウ砦(ヤング・サプリングス砦)を建設した。砦の大きさは概略で縦240フィート (73 m)横165フィート (50 m)あり、湾に向かって長く拡がる小石浜を利点にするために、インディアン川河口に近い水際高く造られた。この場合浅瀬に邪魔されてロシア艦が射程内に近づけないと思われた。14の建物とそれを取り囲む厚い木柵壁を造るためにおよそ1,000本のトウヒ材が使われた。キクスアディの作戦は単純なものだった。ノーウ・トライン砦でロシア軍の強さと意志を推し量り、次に安全と考えられる新しい砦に戦略的な撤退を行うというものだった。 バラノフは、1804年9月遅くにシトカ湾に戻ってきた。乗艦はスループ・オブ・ウォー「ネバ」で、長さ200フィート (61 m)、3本マストで排水量は約350米トン(360メトリックトン)であった。「ネバ」は最近就役したばかりの最新技術を導入した戦艦でありイギリスで設計・建艦され(「テムズ」と命名されていた)、搭載大砲は14門、50名の訓練された乗組員が操船していた。ロシアでは初めて世界を周航できる艦でもあった。船長はユーリ・ヒョードロビッチ・リシャンスキー海軍少佐であった。他に「エルマーク」と2隻の武装小型帆船があり、150名のプロミシュレニクス(毛皮交易業者)が乗っていた。また250隻のバイダルカ船に400ないし500名のアレウト族が乗って随いてきていた。 この戦いではロシアの方に開始時点から運がついていた。9月29日、ロシアは冬の集落の岸に行った。リシャンスキーは、この地をバラノフ知事が生まれた地域の最大都市に因んで、「ノボ・アルハンゲリスカヤ・ミハイロフスカヤ」(ニューアークエンジェル・セイントマイケル)と名付けた。バラノフは直ぐにトリンギット族の集落に使節を送りノーウ・トラインでの交渉を申し出たが、すべて拒絶された。トリンギット族は単にロシア人を長く引き留めておき、その間に冬の集落を棄てて、敵に気付かれないうちに新しい砦を占領しておこうという考えだった。 しかし、キクスアディが「シャーセイイ・アン」(ジェイムズタウン湾)近くの島に貯蔵していた火薬を取りに少数の武装部隊を派遣した時、闇に紛れて行くのではなく白昼堂々と戻ろうとしたこの集団は、ロシア軍に見付けられて短時間の戦闘に突入した。トリンギット族が火薬を運んでいたカヌーに弾が当たり、積荷に火が付いて爆発した。硝煙が晴れると、トリンギット族の各家を代表する上流階級の若者(すべて一族の将来の指導者)、尊敬を集めていた年長者で構成されていた部隊が掻き消えていた。バラノフの使者がトリンギット族に送られ、ロシア艦は間もなく新しい砦に砲撃を開始すると伝えさせた。
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