ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
「日米交渉」の記事における「ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電」の解説
ハル・ノートで交渉が絶望的になってもなお開戦阻止の動きがあった。来栖大使は、戦争を防ぎ得るのは天皇陛下とルーズベルト大統領以外にはないとして、様々なルートを使って、大統領から昭和天皇へ親電を打ってもらうよう働きかけていた。また、寺崎英成一等書記官も来栖の賛同を得て、親電工作に乗り出していた。 (11月26日午前、野村・来栖両大使は、乙案全ての通過は困難であることを報告するとともに、事態打開策としてルーズベルト大統領と昭和天皇の間で親電を交換して「空気を一新」する案を東郷外相に進言していた。だが、この案は東郷に却下されていたので、来栖・寺崎の行動は外務省の指示に背くことになる。) 他方、アメリカ側にも親電を打つ案は以前からあったが、ハル国務長官はルーズベルトに「日本の攻撃が殆ど開始される時まで延期するよう」進言していた。 12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしいというものであった。ハルの原案では「日中の90日停戦、太平洋関係諸国の軍隊の移動禁止、在仏印日本軍の縮小、日中両国の和平交渉の開始」など既に放棄された暫定協定案の再現のような内容であったが、ルーズベルトはこれを採用しなかった。親電を送ることについてのルーズベルトの真意は明らかではないが、ハルは「それを送ることは記録を作る目的以外にはその効果は疑わしい」と否定的だった。 親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは12月8日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の約30分前)であった(この時、昭和天皇は「海軍軍装を召され」ていたことが、『昭和天皇実録』によって初めて明らかになった)。戦後、昭和天皇は「この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容であつ[た]から、黙殺出来たのは、不幸中の幸であつたと思ふ」と回想している。親電について東郷は「此危局を救い得るものとは認め難い」とし、東條も「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言ったとされる。 なお、2013年3月に公開された外交文書によって、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが明らかになっている。
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