リヴァプールの関係者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:50 UTC 版)
「ヒルズボロの悲劇」の記事における「リヴァプールの関係者」の解説
事故直後、遠く離れた位置にいたため事態を把握できない選手や観客によるピッチ侵入と誤認する選手もいたが、試合が中止され被害状況が伝わるにつれて衝撃を受けたという。その中で最も早くレッピングス・レーンの惨状に気づいたキーパーのブルース・グロベラーや地元マージーサイド出身のジョン・オルドリッジは引退の可能性を示唆した。監督のケニー・ダルグリッシュは故人や遺族に寄り添い、警察とフットボール・アソシエーションの失態に対して批判的な立場を採っていたが、ストレスにより帯状疱疹を患うなど体調を崩すようになり、1991年2月に監督を辞任した。ダルグリッシュは退団後にシェフィールド・ウェンズデイから監督就任のオファーを受けたが「立見席で亡くなったすべての人々のことを考えれば、スタジアムにいることは出来ない」として辞退した。 事故当時10歳で亡くなった犠牲者の従兄弟だったスティーヴン・ジェラードは1998年にリヴァプールに入団すると2003年からは主将を務め、2015年に退団するまで17年間に渡りチームに在籍したが、自身は2009年のインタビューにおいて「従兄弟の家族の反応を目撃した経験は、私が今日のような選手になるための動機づけとなった」と発言している。 1989年5月、遺族は相互の支援と協力および事故に関連した正義と真実を引き出す目的のためヒルズボロ・ファミリー・サポート・グループ (HFSG) を結成し、1998年2月には遺族と生存者にサポーターを加えたヒルズボロ・ジャスティス・キャンペーンを結成した。2006年、アン・ウィリアムズ(英語版)は息子の死因に関する新たな審問を求める目的のためホープ・フォー・ヒルズボロを結成したが、没後の2013年12月にBBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー・ヘレン・ローラソン賞(英語版)を受賞した。2014年12月、HFSG代表のマーガレット・アスピノールと会長のトレヴァー・ヒックスは20年以上に渡る活動が認められCBE勲章を受章した。
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