リヴァプール伯爵内閣の閣僚
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「ロバート・ピール」の記事における「リヴァプール伯爵内閣の閣僚」の解説
1810年に陸軍・植民地省次官に就任。さらに1812年にリヴァプール伯爵内閣が成立するとそのアイルランド担当大臣(英語版)として入閣した。アイルランド警察の創設や飢饉対策に尽力した。1818年までの6年にわたって在職した。 1817年秋頃から外国為替相場におけるポンドの低落と金価格高騰により、これまで部分的に行われていた正貨兌換を全面的に行うことを希望する者が増えた。こうした中の1819年に庶民院と貴族院はそれぞれ正貨兌換の再開について検討する秘密委員会を設置した。ピールがその委員長に就任し、委員会は「ピール委員会」と通称されるようになった。委員会においてピールは、通貨の健全化のため、できるだけ早期に金本位制に移行する必要があり、そのためにはイングランド銀行の銀行券を減らす必要があると結論した。ピールは庶民院でもそれを熱弁し、慎重派を圧倒して1819年7月に金本位実施条例(通称「1819年ピール条例」)成立にこぎつけた。 1819年にジュリア・フロイドと結婚した。 1821年、保守的なシドマス子爵ヘンリー・アディントンに代わって内務大臣としてリヴァプール伯爵内閣に再び入閣。ピールは同時期に入閣した外相ジョージ・カニング、蔵相フレデリック・ロビンソン、商務庁長官ウィリアム・ハスキソンらとともに閣内の自由主義派として知られた。彼らの存在によってリヴァプール伯爵内閣はそれまでの「反動的」性格を改めて「自由主義的」になっていった。ピールは内相として残虐な死刑方法の廃止、刑務所の環境の改善など非近代的な厳罰主義を改めて更生に主眼を置いた改革を行った。 しかしリヴァプール内閣は17世紀以来イギリス公職から排除されてきたカトリックに公職就任を認めるか否かをめぐって分裂した。外相ジョージ・カニングらはカトリック解放を支持したが、内相ピールや軍需長官ウェリントン公爵らはカトリック解放に強く反対した。ピールはトーリー党の中では自由主義的な思想を持っていたが、同時に敬虔なイングランド国教会の信徒でもあった。 1827年2月にリヴァプール伯爵が脳卒中になると、その後継者問題が浮上した。国王ジョージ4世はウェリントン公爵を召集したが、公爵は外相カニングか内相ピールに大命を与えるべきことを推挙した。2人はカトリック解放問題をめぐって意見が正反対であったから、どちらも相手の内閣に入閣することを拒否していた。国王はカニングもピールも嫌っていたが、カニングを排除した内閣の組閣は不可能な情勢から、結局4月10日にカニングに組閣の大命を下した。 こうしてカニング内閣が成立したが、ピールやウェリントン公爵らトーリー党内のカトリック解放反対派がカニング政権に強く反発し、党は分裂した。結局カニングはランズダウン侯爵率いるホイッグ党穏健派と連立を組んで組閣することになった。
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