リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 (1818年-1827年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 (1818年-1827年)」の解説
帰国後、ただちにリヴァプール伯爵内閣の補給庁長官(英語版)に就任した。 この時代、イギリス陸軍に関する管理機構は錯綜しており、補給庁は陸軍の武器弾薬や軍用コートの補給を所管する役所だった(食料と輸送は大蔵省の管轄)。1827年までという長きにわたってこの閣僚職に在職したウェリントン公爵だったが、特筆される様な業績はなかった。 1822年8月に盟友である外務大臣カスルリー子爵が自殺し、ジョージ・カニングがその後任となった。この人事はウェリントン公爵が国王ジョージ4世に推挙した結果だった。カニングはトーリー党内の自由主義派であり、保守的なウェリントン公爵は彼に好感を持っていなかった(カスルリーとカニングが犬猿の仲だったこともある)が、反政府派に対抗するためには彼の入閣が不可欠と考えていた。 だがカニングの入閣により閣内の亀裂は深まった。とりわけウェリントン公爵と大法官エルドン伯爵(英語版)の保守的な見解が、カニングやウィリアム・ハスキソンの自由主義的見解と頻繁に衝突するようになった。首相リヴァプール伯爵や内務大臣サー・ロバート・ピール准男爵、陸軍・植民地大臣バサースト伯爵は中間的な立場を取ることが多かった。 とりわけ対立が深刻化したのがカトリック解放問題だった。これはイングランド国教会信徒にしか公務就任が認められていない現状に対してカトリックの公務就任を認めるべきか否かという問題であった。この問題ではカニング、ハスキソンがカトリック解放を支持する一方、ピールがカトリック解放に強く反対した。ウェリントン公爵もカトリック解放反対の立場だったが、閣内分裂を恐れ、この問題ではバサースト伯爵とともに閣内融和に努めている。 1827年1月に陸軍総司令官(英語版)ヨーク・オールバニ公爵が薨去すると、ウェリントン公爵が補給庁長官在任のまま軍職の陸軍最高司令官を兼務した。彼はこの地位に付いたことを非常に喜んだという。 1827年2月17日にリヴァプール伯爵が脳卒中で倒れ、後任の首相を決める必要に迫られた。バッキンガム=シャンドス公爵やニューカッスル公爵などカトリック解放に慎重な貴族たちは後任の首相にウェリントン公爵を推したものの、当のウェリントン公爵には首相になる意思がなく、国王ジョージ4世から次期首相について下問された際に「私はカニングかピールに大命を与えるべきと考えますが、首相選定は陛下が果たされるべき責務です」と奉答している。 カニングとピールはともに相手の内閣で閣僚になる事を拒否していたため、国王としてはどちらかを切らねばならなかった。国王はカニングに組閣の大命を与えた。 これによりピールをはじめとしたカトリック解放反対派閣僚たちは閣僚職を辞した。カニングはウェリントン公爵だけでも閣内に留めようと説得を続けたが、ウェリントン公爵は「カトリック問題を慎重に取り扱うというリヴァプール内閣の方針を貴官が踏襲するならば留まってもいいが、貴官にその意思はないことは明白である。党を分裂させる恐れのある内閣には参加できない」と述べて入閣を拒否し、補給庁長官職と陸軍総司令官職を辞した。
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