ラッペンシュトゥール
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「ブラームシェ」の記事における「ラッペンシュトゥール」の解説
ラッペンシュトゥール地区は、1952年に新興住宅地として開発されたブラームシェで最も新しい地区である。 「ラッペンシュトゥール」という地名は、「ランプレヒト伯のリヒトシュトゥール」に由来する。これは1402年に初めて記録されている。これは近くに存在した耕牧地であった。 第二次世界大戦末期に流入した難民や旧ドイツ東部領土から追放された人々はエングター教会管区に入植地を形成した。エングター、シュレップトルプ、カルクリーゼには販売する土地がなかったため、当時は森であったラッペンシュトゥールのバール男爵フーゴの土地所有権が分譲販売された。 リーステ出身の州議会議員エルンスト・ベッターマン (SPD) の支援を受け、最終的には 65.94 ha が販売された。後にエルンスト・ベッターマンの栄誉をたたえてエルンスト=ベッターマン広場が設けられた。1952年4月9日に建設希望者に分譲地が引き渡された。1952年12月4日にラッペンシュトゥールに電気が引かれた。1958年6月15日、ラッペンシュトゥールで最初の住民祭が開催された。この住民祭は現在も毎年行われている。 エングターとシュレップトルプにまたがっていたラッペンシュトゥールは、行政業務についても両町が管轄していた。1990年9月21日にラッペンシュトゥール住民団はラッペンシュトゥールの地区固有の市議会議員を立てる提案を行った。長く、激しい議論の末、1991年3月14日に市議会はこの提案に賛成の結論を出した。1991年10月6日、初めてのラッペンシュトゥールの代議員が選出された。 1950年代には、ラッペンシュトゥール地区の就学児童にはエングターの国民学校へ通う簡単な手段がなかったため、固有の学校校舎が建設された。定礎は1954年7月17日になされた。1955年1月8日に33人の子供たちが初めて自分たちの学校を訪れた。 1964年4月に第5学年から第8学年がエングターに移され、バス路線が整備された。学校改革により、1973年3月5日にラッペンシュトゥールの学校は廃止された。現在この建物は労働者福祉組合が運営する幼稚園となっている。この建物は2003年に大規模な近代化と改築がなされた。 1955年1月31日の建設計画にすでに教会が予定されていた。トーマス礼拝堂の歴史は第二次世界大戦後のヴォルトラーゲで始まった。この地に住み着いた福音主義の難民たちが教会の礼拝を行えるように、アメリカのルター派による寄付援助を受けてディアスポラ礼拝堂が建設された。1968年にはほとんどの難民が再びこの地を去り、礼拝堂は必要でなくなった。その結果、別の集落への移転が計画された。1970年6月/7月に解体が始まった。再建までに部品はラッペンシュトゥールの新しい建設地に運ばれた。1970年8月1日に新しい礼拝堂が完成した。その間に入植地の人々は、この廃材の山から礼拝堂が再建できるのかと疑ったため、疑い深いトーマスにちなんだ名がつけられた。
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