ラツィオ時代
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「ミロスラフ・クローゼ」の記事における「ラツィオ時代」の解説
2011年6月9日、契約期間満了でバイエルンを退団。SSラツィオへ移籍した。初の海外挑戦に対し不安の声も聞かれたがすんなりとチームにフィットし、怪我での離脱がありながらもチームトップのリーグ戦13得点を記録した。活躍したことでラツィオファンからすぐに受け入れられたが、10月16日のASローマ戦でクローゼがゴールを挙げて勝利すると一部の過激なラツィオファンが敬意を示すためにナチス式敬礼をして問題になるということもあった。 2012-2013シーズンでは、2013年5月5日のボローニャFC戦でセリエAでは27年ぶりとなる1試合5ゴールを記録した。最終的にリーグ戦15得点を記録した。チームとしてはコッパ・イタリアで優勝した。 2013-2014シーズンは出場機会が少し減り、最終成績も7得点に留まった。 ワールドカップ後の2014年7月22日に突然、地元ドイツの「ビルト紙」のインタビューに「来年の夏が引退の時」と自ら引退を示唆する発言をした。2014-2015シーズンはリーグ戦で13ゴール7アシスト、カップ戦6試合で3ゴール2アシストの成績を残した。 2015-2016シーズンは計8得点を挙げた。2016年5月10日にラツィオはクローゼとの契約を延長しないことを発表し、2015-2016シーズン終了後に契約満了に伴い退団した。またラツィオでの最後の試合となった5月15日のフィオレンティーナ戦ではPKからゴールを挙げ、ラツィオで通算64得点とし、クラブの外国人選手最多得点記録保持者となった。 その後、現役続行の意思を示し、古巣カイザースラウテルン復帰やアメリカ、中国といったヨーロッパ外など様々な移籍オファーが報じられたが、同年11月1日にドイツ・サッカー連盟を通じて現役引退を発表した。この選択について、引退発表時には「この数か月、指導者という新たな立場からピッチに立ちたいと思っていた。試合の流れを読み、緻密に準備し、戦術や戦力を発展させる。それは現役時代から考えていたよ」と明かしている。
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