ミッションスクールの動き
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「女子教育」の記事における「ミッションスクールの動き」の解説
「日本のキリスト教史#教育事業」も参照 16世紀以来禁教令が敷かれていたが、開国が始まり、1858年(安政5年)の安政五カ国条約により、1859年(安政6年)に箱館・横浜・長崎が、1868年(慶応3年)に神戸が、1869年(明治元年)に新潟が開港した。これらの外国人居留地において、江戸幕府、明治政府は条約港での外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。1873年(明治6年)の布告により禁教令は解かれ、キリスト教宣教師の来日やキリスト教徒による教育活動が可能となる。 富国強兵政策を唱える明治政府は女子教育の整備に消極的であり、男子のための中学校設立が優先され、女子のための中等教育機関は後回しにされた。良妻賢母の育成を求め、キリスト教教育を認めない国と、ミッション系の学校との間には常に軋轢があった。そこで日本における女子教育の先鞭を付けたのがキリスト教各派の宣教師たちだった。明治初期に創設された女子中等教育校で、ミッションスクールが日本人により設置された学校より多いのはこのためである。 1869年(明治2年)、アメリカの宣教師らが東京を視察し、ミッションスクール「カロザース塾」を開校、現在の女子学院中学校・高等学校の源流となる。 1870年(明治3年)、米国改革派教会が婦人伝道師メアリー・キダーを派遣しフェリス女学院を創設する。 1871年(明治4年)には、1861年から横浜に滞在していたジェームズ・H・バラの要請に応え、米国婦人一致外国伝道協会 (WUMS) のメアリー・プラインらにより〈ドリーマス・スクール〉が設立される(現:横浜共立学園中学校・高等学校)。 カトリック教会のローマ教皇庁は、日本の鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していた。19世紀半ばの開国の兆しに伴い、パリ外国宣教会に日本への宣教師派遣を依頼した。 1872年(明治5年)にはサンモール修道会(現:幼きイエス会)のシスターがフランスから来日し、1875年(明治8年)築地明石町に語学学校(現:雙葉中学校・高等学校)を設立している。 1873年(明治6年)、アメリカン・ボードから派遣された女性宣教師イライザ・タルカットとジュリア・ダッドレーが神戸の宣教師団の支援の元に私塾を開校(現:神戸女学院中学部・高等学部)。 1874年(明治7年)、アメリカ・メソジスト教会牧師、M・Cハリスメリマン・ハリス夫妻により、函館市に日々学校 (Day School) が設立される(現:遺愛女子中学校・高等学校)。 1875年(明治8年)、米国聖公会宣教師エレン・エディが、大阪市川口居留地に「エディの学校」設立(現:平安女学院中学校・高等学校(京都市上京区))。 1875年に正式な孤児院として認可された「仁慈堂」を基に1900年(明治33年)、横浜山手88番に一般の子女を対象にした横浜紅蘭女学校が開校した(現:横浜雙葉中学校・高等学校)。 1877年、米国聖公会の宣教師チャニング・ウィリアムズとその協力者であるクレメント・T・ブランシェ長老により東京都文京区湯島に「立教女学校」が設立される。 1877年(明治10年)、フランスから来日したショファイユの幼きイエズス修道会の修道女4名が神戸で孤児養育を開始し、1884年(明治17年)、川口居留地に信愛女学校を創設する。 1878年(明治11年)、函館にシャルトル聖パウロ修道女会フランス人修道女3名が来日し、1881年(明治14年)に東京神田猿楽町に学校を設立。これが現在の白百合学園である。 1879年(明治12年)、イングランド国教会の宣教組織、東洋女子教育協会 (FES) からの女性宣教師ミス・メアリー・J・オクスラドが大阪川口居留地4番に永生女学校を開校(現:プール学院中学校・高等学校(大阪市生野区))。 1879年(明治12年)、米国メソジスト監督教会婦人外国伝道協会の宣教師エリザベス・ラッセルが長崎市東山手16番館に「女学校」(当初の正式な校名は不明)を開校(現:活水中学校・高等学校)。 1880年(明治13年)、ハリエット・ブリテンにより横浜山手48番に「ブリテン女学校」が設立される(現:青山学院横浜英和中学高等学校)。 1884年(明治17年)、カナダ・メソジスト教会(現在のカナダ合同教会)婦人伝道会社から派遣された宣教師ミス・カートメルにより麻布鳥居坂に東洋英和女学校が設立される。 1884年(明治17年)、米国カンバーランド長老教会外国宣教局により、大阪川口居留地にウヰルミナ女学校が開校した(現:大阪女学院中学校・高等学校(大阪市中央区))。 なお、男子の最初のミッションスクールは、1871年、チャニング・ウィリアムズ主教が築地居留地に開校した私塾である(現:学校法人立教学院)。次いで創設されたのは、1878年にジュリアス・ソーパーが築地1丁目に設立した男子校「耕教学舎」である(現:学校法人青山学院)。 キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治の終わりになって来日し、1913年(大正2年)に上智大学を開いている。
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