ポスト・ド・ゴールの時代とは? わかりやすく解説

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ポスト・ド・ゴールの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:29 UTC 版)

フランス第五共和政」の記事における「ポスト・ド・ゴールの時代」の解説

1969年4月28日第五共和政発足させたシャルル・ド・ゴール辞任したその後6月15日ド・ゴール後継としてポンピドゥー大統領選出された。

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ポスト・ド=ゴールの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「ポスト・ド=ゴールの時代」の解説

詳細は「五月危機」を参照 しかし1966年学生運動発端とする五月危機政界にも大きな影響与えたド・ゴール学生反乱には弾圧をもってゼネストに対してグルネル協定をもって対応し、さらに国民議会解散させて行われた総選挙では圧勝したことで事態収拾したものの、翌年には大統領引退することとなった後継にはジョルジュ・ポンピドゥー選出され、彼はド・ゴール目指した「偉大なフランスへ追求」を継承しつつも、彼のようなカリスマ性による統治などはできない判断したことから、党組織固め経済の近代化重視した。またポンピドゥー欧州統合一環として1967年7月ブリュッセル条約によって成立した欧州諸共同体(EC)へのイギリス加盟承認しヨーロッパ協調路線築き上げた1970年代経済成長近代化伴って生じた社会の変容への対応によって、政界大きな再編迫られた。特にこうした変化産物であった新中間層」の成立は、それまでの「中間層」を支持基盤としてき急進党にとって深刻な影響与えたし、共産党社会党にとっても、これらの層の取り込み難航した一方で早い段階からこの層に目をつけたのがヴァレリー・ジスカールデスタン彼の党である独立共和派であった。また共産党社会党1972年に「共同政府綱領」を発表し接近していった。 1971年8月アメリカ大統領リチャード・ニクソン発表したドルと金兌換停止は「ニクソン・ショック」と呼ばれフランスをはじめ多くの国が変動為替相場制導入迫られた。一方で欧州統合という理念に対して欧州諸共同体加盟国間での為替変動統合にとって好ましくないというジレンマ抱えていた。これらは加盟国間の為替相場にはある程度余裕持たせた上で固定し非加盟国とは変動為替相場制を取る、為替相場協力政策によって一応の解決もたらされた。翌1972年には欧州諸共同体そうした協力政策一環である「スネーク」が採用されフランス参加したものの、これは競争的平価切下げによって支えられてきたフランスの経済成長放棄することを意味していた。 1974年4月ポンピドゥー現職のまま病気によって死去すると、5月大統領選挙ではジスカールデスタン当選し大統領就任したジスカールデスタン大統領就任は、第五共和政にとって、ド・ゴール派以外が政権につく、最初政権交代であった。しかし一方でジスカールデスタン大統領就任とほぼ同時期にフランス襲った第一次石油危機への対応として財政支出削減増税貨幣流通量減少などを目指す経済政策パッケージ経済冷却計画」が施行され結果として失業者増加招いた1976年3月にはジスカールデスタン政権首相であったジャック・シラクによって国内不況対策への優先から、スネーク一時離脱なされた7月かねてよりド=ゴール派であり、リベラルで親欧州的なジスカールデスタンとそりが合わなかったシラク首相職辞しド=ゴール派の政党である共和国連合へと離党してしまう。それを受け後任就いたレイモン・バール石油危機対応としてインフレ抑制や、フラン為替相場安定掲げ一連のインフレーション計画通称「バール・プラン」を9月より実行した。この時期フランスの政治情勢を、法学者モーリス・デュヴェルジェは「カドリーユ・ビポレール」(二極的なカドリーユ) と表現している。カドリーユとは4人の踊り手によるバレエ用語で、大統領選挙国民議会選挙によって連立求められると、社会党共産党というペアと、ド・ゴール派とリベラルペア分かれるということ指摘しており、またこうした関係はお互いペア同士敵対心によって連合組みながら、ペア同士競合的な地位ゆえに遠心力も働く、といったものであるこうしたカドリーユ・ピボレールな政治情勢70年代最盛期迎えたジスカールデスタン政権期は、同じ時期政権持った西ドイツシュミット首相との仏独首脳会談定例化と常設化実現し1979年にはドル乱高下を防ぐために欧州通貨制度立ち上げるなどし、欧州統合進めたこうした仏独関係はしばし独仏枢軸(パリ・ボン枢軸)と呼ばれた

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