ペレコープ地峡 - 1943年冬
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「クリミアの戦い (1944年)」の記事における「ペレコープ地峡 - 1943年冬」の解説
ドイツ側では、V軍団(カール・アールメンディンガー歩兵大将)とルーマニア山岳軍団(ヒューゴ・シュワブ中将)がケルチ半島担当で、クリミア半島北部は、XXXXIX山岳軍団(ルドルフ・コンラッド山岳兵大将)の担当になった。しかし、XXXXIX山岳軍団は、クリミア半島への撤退後に部隊のほとんどすべてを南方軍集団にとられて、その代償に南方軍集団から受け取った第336師団以外にはクリミア半島北部に展開する部隊を持っていなかった。第336師団は、ウクライナでの戦闘で大変損耗した部隊で、実質、4個大隊相当しかなく砲兵部隊を持っていなかった。クリミアには、クリミア駐留軍(Befehlshaber Krim, フリードリッヒ・コクリング中将)傘下にスロバキア第1歩兵師団、第153野戦訓練師団、ベルクマン大隊や空軍野戦連隊などの雑多な部隊があったが、これらの部隊の戦闘能力はいずれも極めて限られていた。ソ連軍がクリミアに迫っていたので、急遽、ペレコープ地峡の陣地には、スロバキア第1歩兵師団と第153野戦訓練師団の部隊が充てられた。 10月30日朝、ソ連第28軍第118ライフル師団の一部隊は、チョーンガル半島のドイツ軍陣地に突っ込み阻止された。これに対応して、イェーネッケは、第50師団の3個大隊をペレコープ地峡に、ルーマニア山岳軍団の3個大隊強を腐海沿岸の防衛の為に、ケルチ半島から送った。 11月1日朝、ソ連第19戦車軍団220戦車旅団の11両のT-34と約400人の随伴歩兵は、事前砲爆撃なしにペレコープ地峡を急襲した。ソ連軍の攻撃時、主陣地のタタールの壁の前にあるタタールの壕を渡る道路橋と鉄道橋は許可が出ていないので落とされておらず、また地雷も埋設されていなかった。第9高射砲師団の88mm砲はイシュンから輸送中だった。攻撃を受けてスロバキア師団の一部はパニックを起こして潰走し、ソ連軍部隊の一部はタタールの壁を突破してアルミャンスク集落の前面まで到達し、そこでドイツ軍部隊によって阻止された。11月2日も、ソ連軍は新たな増援部隊を使ってドイツ軍防衛線を攻撃したが、突破口を拡大することはできなかった。11月6日には、ドイツ軍は、到着した第50師団の増援部隊も加わって反撃に転じ、突出部のソ連軍を押し戻したが、タタールの壁の一部を占拠しているソ連軍を完全に除去することはできなかった。 ペレコープ地峡での戦闘が続いている同じ11月1日、ソ連第28軍第10ライフル軍団の部隊は、白昼腐海を歩いて渡って、クリミア半島側に橋頭堡を築く事に成功した。この時、腐海沿岸は無防備だった。11月6日には、フェオドシアからのルーマニア軍部隊が腐海沿岸に到着したが、橋頭堡のソ連軍は除去するには強力すぎて、封じ込めることができただけだった。 11月7日には、戦線は膠着状態になり、一応の安定を見ることになった。この結果、ドイツ軍はなんとかソ連軍のクリミア半島への侵入を食い止めることはできたが、クリミアの枢軸軍は陸上補給路を失ってしまい、補給は海路と空輸に頼ることになった。
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