ペレコープ地峡 - 1941年秋とは? わかりやすく解説

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ペレコープ地峡 - 1941年秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:45 UTC 版)

クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「ペレコープ地峡 - 1941年秋」の解説

マンシュタインは、第11軍司令部赴任するとともに作戦重心クリミアにおき、XXX軍団(メリトポリ方面)より砲兵戦闘工兵抜きLIV軍団(クリミア方面)へ増強したLIV軍団の2個師団(4673)は、攻勢弾薬集積待ち9月24日ペレコープ地峡ソ連軍防衛に対して攻撃開始したソ連軍は、第156師団の約9000人が防衛陣地に籠もっていた。26日昼には、第73師団は、主陣地タタールの壁を西側破り、その背後のアルミャンスク集落まで到達した28日まで、ソ連51予備隊とドイツLIV軍団の間で、アルミャンスク集落タタールの壁をめぐって争奪戦続いたが、28日夕にはドイツ側占領しソ連軍は、約20km南方のイシュンの防衛線(クリミア半島北部での最後防衛線だが兵員配置されていない)へ撤退始めた29日には、ソ連側ではクズネツォフとオクチャーブリスキーの要請に応じてスタフカ善戦していたオデッサ防衛諦めてオデッサ独立沿岸軍(10月5日より司令官イワン・ペトロフ少将,約6個師団相当)をクリミア防衛転用する事にした。最初オデッサ防衛部隊は10月4日に、海路クリミア向かった一方ドイツ側では、マンシュタイン陸軍総司令部(OKH)を説得して第11軍担当範囲クリミアだけとすることに成功したが、そのかわりにXXXXIX山岳軍団LSSAH師団(連隊規模)を引き渡すハメになったペレコープ地峡戦いで両軍ともに大きな損害を受け、ドイツ軍直ちにイシュンの防衛線を攻撃できる状況にはなかった。イシュンの防衛線を巡る戦闘は、10月18日から10月26日まで続いたが、最終的には、ドイツ軍防衛線を占領しソ連51軍の残余ケルチ半島方面へ、海軍歩兵部隊を含む独立沿岸軍は、シンフェロポリ経由イェウパトーリヤ経由のふた手に別れてセヴァストポリ目指し撤退始めたドイツ第11軍は、ペレコープ地峡とイシュンでの戦闘で、約12000人の損害出した一方ソ連軍は、第51軍(10月22日より司令官パベル・バトフ中将)は、その1/4をペレコープ地峡失い、さらにイシュンで約16000人の捕虜出して残っている戦闘能力わずかになってしまった。独立沿岸軍は、兵員数80000人のうち約28000人をペレコープ地峡とイシュンで失ったスタフカは、10月22日クズネツォフ解任し、在クリミア陸海空総司令官に、ゴーディ・レフチェンコ海軍中将任命したレフチェンコは、1917年二月革命以来輝かし党員歴を持っていたが、地上戦指揮経験はなかった。 ドイツ軍は、10月31日イェウパトーリヤシンフェロポリ11月3日フェオドシヤ占領したソ連51軍は、パルパック地峡ケルチ防衛戦試みたが、パルパック地峡防衛線は11月7日突破され、7日間攻囲戦のあと11月17日ドイツXXXXII軍団(ハンス・グラーフ・フォン・スポネック中将)はケルチ占領しソ連軍ケルチ半島から一掃されてしまった。 ソ連軍は、ペレコープ地峡、イシュンの防衛線にすべてをつぎ込んでいたので、この時点セヴァストポリ要塞は、十分な守備要員持たない状況であったが、ドイツ軍大損害を受けており、自動車化されていなかったので、退却しているソ連軍より先行してセヴァストポリ要塞奪取することは出来なかった。

※この「ペレコープ地峡 - 1941年秋」の解説は、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の解説の一部です。
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