ペレコープ地峡 - 1941年秋
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「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「ペレコープ地峡 - 1941年秋」の解説
マンシュタインは、第11軍司令部に赴任するとともに、作戦の重心をクリミアにおき、XXX軍団(メリトポリ方面)より砲兵と戦闘工兵を抜き、LIV軍団(クリミア方面)へ増強した。LIV軍団の2個師団(46と73)は、攻勢用弾薬の集積を待ち、9月24日にペレコープ地峡のソ連軍防衛線に対して攻撃を開始した。ソ連軍は、第156師団の約9000人が防衛陣地に籠もっていた。26日昼には、第73師団は、主陣地のタタールの壁を西側で破り、その背後のアルミャンスク集落まで到達した。28日まで、ソ連第51軍予備隊とドイツLIV軍団の間で、アルミャンスク集落とタタールの壁をめぐっての争奪戦が続いたが、28日夕にはドイツ側が占領し、ソ連軍は、約20km南方のイシュンの防衛線(クリミア半島北部での最後の防衛線だが兵員配置されていない)へ撤退を始めた。 29日には、ソ連側ではクズネツォフとオクチャーブリスキーの要請に応じて、スタフカは善戦していたオデッサの防衛を諦めて、オデッサの独立沿岸軍(10月5日より司令官イワン・ペトロフ少将,約6個師団相当)をクリミアの防衛に転用する事にした。最初のオデッサ防衛部隊は10月4日に、海路でクリミアへ向かった。 一方、ドイツ側では、マンシュタインは陸軍総司令部(OKH)を説得して、第11軍の担当範囲をクリミアだけとすることに成功したが、そのかわりにXXXXIX山岳軍団とLSSAH師団(連隊規模)を引き渡すハメになった。 ペレコープ地峡の戦いで、両軍ともに大きな損害を受け、ドイツ軍は直ちにイシュンの防衛線を攻撃できる状況にはなかった。イシュンの防衛線を巡る戦闘は、10月18日から10月26日まで続いたが、最終的には、ドイツ軍が防衛線を占領し、ソ連第51軍の残余はケルチ半島方面へ、海軍歩兵部隊を含む独立沿岸軍は、シンフェロポリ経由とイェウパトーリヤ経由のふた手に別れてセヴァストポリを目指して撤退を始めた。ドイツ第11軍は、ペレコープ地峡とイシュンでの戦闘で、約12000人の損害を出した。一方、ソ連軍は、第51軍(10月22日より司令官パベル・バトフ中将)は、その1/4をペレコープ地峡で失い、さらにイシュンで約16000人の捕虜を出して、残っている戦闘能力はわずかになってしまった。独立沿岸軍は、兵員数約80000人のうち約28000人をペレコープ地峡とイシュンで失った。 スタフカは、10月22日にクズネツォフを解任し、在クリミアの陸海空総司令官に、ゴーディ・レフチェンコ海軍中将を任命した。レフチェンコは、1917年の二月革命以来の輝かしい党員歴を持っていたが、地上戦の指揮経験はなかった。 ドイツ軍は、10月31日にイェウパトーリヤとシンフェロポリ、11月3日にフェオドシヤを占領した。ソ連第51軍は、パルパック地峡とケルチで防衛戦を試みたが、パルパック地峡の防衛線は11月7日に突破され、7日間の攻囲戦のあと11月17日にドイツXXXXII軍団(ハンス・グラーフ・フォン・スポネック中将)はケルチを占領し、ソ連軍はケルチ半島から一掃されてしまった。 ソ連軍は、ペレコープ地峡、イシュンの防衛線にすべてをつぎ込んでいたので、この時点でセヴァストポリ要塞は、十分な守備要員を持たない状況であったが、ドイツ軍も大損害を受けており、自動車化されていなかったので、退却しているソ連軍より先行してセヴァストポリ要塞を奪取することは出来なかった。
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