ピッグス湾事件とキューバ危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 16:18 UTC 版)
「エセックス (空母)」の記事における「ピッグス湾事件とキューバ危機」の解説
「ピッグス湾事件」も参照 1961年4月、「エセックス」はジャクソンビルの海軍航空隊の隊員技量維持のための訓練に参加するため、2週間の通常訓練航海の名目でフロリダ沖を航行した。この時、「エセックス」には12機のA-4 スカイホークを搭載し、パイロットはVA-34 ブルー・ブラスターズ(英語版)から派遣されていた。A-4 は20ミリ機銃で武装されており、数日後には識別標識は機体と同じグレーの塗装で塗りつぶされた。やがて、A-4 の一隊は事実上の戦闘哨戒飛行のため昼夜分かたず飛行するようになった。一連の行為は4月15日から19日にかけて起こったピッグス湾事件でニカラグアから出撃した反カストロ軍の爆撃機護衛のための任務であったが、「エセックス」の一般の乗組員には真相は知らされなかった。「エセックス」の航空活動は、ジョン・F・ケネディ大統領とエセックスの高級幹部の間で交わされた極秘指令により中止された。計画では反カストロ軍が樹立した臨時政府の要請でアメリカ海兵隊が空母からの航空支援のもとキューバに上陸・進駐する予定であったが反カストロ軍が敗北したため中止になった。 1961年後半の「エセックス」は「人々から人々へ」と題された北部ヨーロッパへの航海を行い、ロッテルダム、ハンブルクおよびグリーノックを訪問した。これはベルリン危機の警備目的もあった。ハンブルク寄港時には、100万人もの人々が「エセックス」を見学した。ハンブルク出港の際、「エセックス」はエルベ川の浅瀬に座礁しかけたが、この時は事なきを得た。しかし、1962年1月に北大西洋において暴風雨に遭遇し、艦全体にわたって大きな損害を受けた。「エセックス」はこの損傷の修理とオーバーホールのため、1962年上半期の大半をブルックリン海軍工廠の乾ドックで過ごした。 「キューバ危機」も参照 「エセックス」が6ヵ月にわたるオーバーホールを終え、グアンタナモ湾周辺で試験航海を行っていた1962年10月、ケネディ大統領は、キューバにソ連製準中距離弾道ミサイルが配備されていたことが判明したため、キューバ周辺の公海上の海上封鎖を行う旨宣言を行った。「エセックス」もエセックス級空母「ランドルフ」、フォレスタル級空母「インディペンデンス」、それから就役したばかりの世界初の原子力空母「エンタープライズ」とともに10月24日以降「キューバに対する攻撃用兵器輸送全ての隔離」に参加した。翌日、「エセックス」と駆逐艦「ギアリング」は最初にソ連籍タンカー「ブカレスト」を捕捉したが、兵器輸送に使われていないことが明らかだったので通過させた。一方何隻かのソ連船は臨検される前に引き返した。ソ連船団には4隻のフォックストロット型潜水艦が護衛に就いていたが駆逐艦とソノブイや磁気探知機を装備した艦上対潜哨戒機によって4隻中3隻が捕捉・強制浮上させられた。以後、カリブ海での1ヵ月に及ぶ海上封鎖に参加し、ソ連が核ミサイルを貨物船に詰めてキューバから撤退するのを監視した。その後感謝祭直前に母港に帰投した。
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