ヌビア人の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:03 UTC 版)
「エジプト第22王朝」の記事における「ヌビア人の侵入」の解説
このようなエジプトの混乱が外部勢力の侵入を誘ったとしても何ら不思議はない。東方ではアッシリアが勢力を増していたが、彼らはバビロニアの反乱に手を焼いており、さしあたっては安全であった。しかし南方のヌビア(第25王朝)はそうではなかった。ヌビアでは新王国時代のエジプト支配を通してエジプト文化が普及しており、エジプトのアメン神を中心とした宗教体系が導入されていた。そしてヌビア人は新王国末期にはクシュ王国(ナパタ王国)と呼ばれる強固な王国を築いていた。このヌビア人の王国はエジプト風にファラオの称号を採用し、カルトゥーシュの中に王名を記していた。当時の王ピアンキは、エジプトの王国が四分五裂する様を目にして北方への遠征を決意した。もはやエジプトから派遣された「南の異国の王子」がヌビアを統治したのは遠い過去の話になっていたのである。ピアンキの主張するところによればこの遠征は「旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す」ものであった。 ピアンキの侵入に対し、エジプトに割拠していた王達のうち、タニス(第22王朝)のオソルコン4世(英語版)、レオントポリス(英語版)(第23王朝)のイウプト2世、サイス(第24王朝)のテフナクト1世(英語版)、ヘルモポリスのニムロト、ヘラクレオポリス(英語版)のペフチャウアバステトらは同盟を結んで対応したが、次々と撃破されその軍門に下った。しかし彼らはピアンキに臣従することで名目的な王位を認められ、引き続き現地を支配することができた。ピアンキはヌビアからエジプトを統治することを好んでおり、エジプトへの移住はしなかったのである。とはいえ、独立勢力としての第22王朝の歴史はここに終焉を迎えた。 サイス(第24王朝)のテフナクト1世だけはなお反撃の機会を窺ったが、ヌビア人によるエジプトの完全支配は目前に迫っていた。
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