トスカーナ支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:40 UTC 版)
コルシカ島は、469年にヴァンダル族の王ガイセリックに占領され、534年には東ローマ帝国領となった。ランゴバルド族が725年に再び島を奪い、カール大帝が774年に彼らを一掃した。彼は島を教皇庁へ引き渡した(教皇庁はゲルマン民族による島の荒廃に最も強力な非難をしていた)。806年にはイベリア半島を征服していたムーア人が島を征服し、短期間治めたが、828年に教皇庁がトスカーナ辺境伯に島の防衛を命じた(当時のトスカーナ辺境伯は、名目上イタリア王国の支配下にある神聖ローマ帝国に従属する、強力な国であった)。 目に見えて今日のボニファシオ市街は、828年に初代トスカーナ辺境伯となったコロンナ家のボニファーチョ2世にちなんだ地名と要塞によって形作られた。ボニファーチョ2世は北アフリカにおけるサラセン人制圧のため海軍遠征を率い、帰国後に難攻不落の要塞と、トスカーナ辺境伯所有の海軍基地を建設した。これはさらに遠く離れた辺境での防衛のためであった。シタデルの大半は9世紀の後のものであるか、日付が定かでないものだが、円形の塔であるイル・トッリオーネは、原型のシタデル時代からその一部であることが確かである。 11世紀初頭、マッサ侯グリエルモ・マラスピーナがトスカーナ辺境伯となる。11世紀後半から、島の領有をめぐりジェノヴァ共和国とピサ共和国が争うようになった。 1146年、ローマ教皇エウゲニウス3世は、コルシカ島の領有と権限をピサ共和国のものと確認した。 1211年、神聖ローマ皇帝オットー4世は、ジェノヴァに対しボニファシオをピサへ返還するよう要求した。 1270年、ローマ教皇ボニファティウス8世が、コルシカ及びサルデーニャをアラゴン王ハイメ2世の封土とした。 1276年、ボニファシオのポデスタ(司法権を持つ市長)パスカル・ダ・マールがジェノヴァ共和国に臣従を誓った。 1523年、黒死病の大流行で、ボニファシオの人口5000人のうち約4300人が死亡。 1559年、カトー・カンブレジ条約によって、ボニファシオがジェノヴァへ返還される。 1736年、ドイツ人冒険家テオドール・フォン・ノイホーフが、ジェノヴァで亡命コルシカ人の支持を得てコルシカへ上陸。チュニスのベグの軍事協力を得てコルシカ王テオドール1世を僭称、住民に支持された。しかし島の実権を握るフランスとジェノヴァによって島を追放された。 1764年、コルシカ独立戦争平定のため、シャルル・フランソワ・デュムーリエが派遣された。 1789年12月、憲法議会によって、ボニファシオ全体が同名のコミューンとして再編された。
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