ゾーアの戦い
ゾーアの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)
「第二次シュレージエン戦争」の記事における「ゾーアの戦い」の解説
マリア・テレジアは、大王の期待に反して戦意旺盛であり、プロイセンからシュレージエンを奪い返すためにさらなる戦いを望んでいた。よって女王はイギリスの大使トマス・ロビンソンが提案した講和を拒否した。イギリスとオランダはオーストリアが西方に兵力を回さないのが不満でザクセンへの資金援助を渋っており、今年1月に結ばれたばかりのワルシャワ条約は早くも空文化していた。このためオーストリアはザクセンを自国側に繋ぎとめるためにケーフェンヒュラーを送り、8月29日にドレスデンで自国との同盟を再確認した。さらに女王はロシアに参戦を呼び掛けて三カ国によるプロイセン攻撃の計画を構想した。 近日中の夫の皇帝即位が予定される中、女王はカール公子軍に兵士の補充を行わせるとともに、ロプコヴィッツとダレンベルクの両将軍を送って補佐役とし、カール公子に断固としてプロイセン軍への攻撃を命じた。カール公子は、軍の一部にエルベ東岸を北上させてプロイセン軍のシュレージエンとの連絡線を攻撃してこれを断ち、一方で主力はエルベ西岸に渡って大王軍を圧迫し、北に追いやってベーメンから撤退させることを目指した。 オーストリア軍が北上を開始したとき、プロイセン軍部隊は占領地で物資調達を容易にするために広く分散しており、まずは集結を図らなければならなかった。大王はオーストリア軍の行動によって女王が戦争継続を選んだことを知り、和平への見通しが甘かったことを悟った。上シュレージエンの回復やザクセン牽制のために部隊を派遣してベーメンのプロイセン軍は数を減らしていたため、大王はベーメンでの交戦はせずにシュレージエンへ撤退することにし、オーストリア軍はこれを追った。 プロイセン軍の補給路では例によってトレンク、フランキーニといった指揮官に率いられたオーストリア軍軽歩兵部隊による攻撃が行われた。プロイセン軍も彼らへの対処方法を経験によって学び、複数のルートを設けて補給部隊に大きな護衛部隊を付け、中継基地の守備も固めていたが、グラッツ方面の連絡線は度重なる攻撃によって放棄せざるを得なかった。大王に随行していたフランスの大使ヴァロリーは、フランキーニによる退却路への先回りした攻撃によって危うく捕虜になりかけ、秘書ダルジェが機転を利かせて自ら身代わりとなることで危機を脱したこともあった。食糧不足に苦しむようなことはなかったが、この攻撃はプロイセン軍に対して大きな圧力となり、また警備に兵力を割かねばならなくなった。 9月18日、プロイセン軍はヤロミッツでエルベ川東岸に渡り、北上してシュレージエンを目指した。退却進路をオーストリア軍から守るためにデュ・ムーラン、ヴィンターフェルト、レーヴァルトらを次々に送り出したことで、もともと少なくなっていた大王軍の戦力は2万程度にまで落ち込んでいた。これに対して4万の兵力を持つカール公子軍は積極的に敵を追い、9月29日夜、ゾーアにおいてプロイセン軍に会戦を仕掛けるため接近した。このとき大王は、あくまで敵の行動は自軍を機動によって撤退させることにあると考えて敵の戦意を過小評価し、警戒を怠ってその接近を許した。翌30日早朝、敵のすぐそこに迫っていることに気付いた大王は兵力半分ながら攻撃に出、ゾーアの戦いに勝利した。 ゾーアの戦いの後、大王は軍を同地に5日間留め、内外に勝利を印象付けてから10月6日に撤退を再開し、19日に国境を越えてシュレージエンに戻った。大王はこの戦勝によってオーストリアに講和を受け入れさせることができると考えており、今年の戦役は終わりと判断してシュレージエンの軍およびザクセン国境の軍を冬営に入らせた。
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