ソ連時代とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:15 UTC 版)
ソビエト連邦政府はオムスクよりも、歴史の新しいノヴォニコラエフスク(ソ連建国後にノヴォシビルスクと改名される)を西シベリアの中心都市に選んだ。政府はオムスクにあった行政機関、文化施設、教育機関などを相次ぎノヴォシビルスクへと移したが、これによりオムスクは停滞し、オムスクとノヴォシビルスクの間に現在まで続くライバル関係が築かれることになる。 オムスクの経済を再び爆発的に成長させたのは第二次世界大戦時と戦後の冷戦期に行われた国防産業への投資であった。1941年の大祖国戦争(独ソ戦)開戦で前線に近いヨーロッパ・ロシア西部から工場などがウラル山脈以東へ疎開し、オムスクに集積した。ソ連政府はドイツ軍がヨーロッパ・ロシアを征服した場合にオムスクを臨時首都とする検討も始めた。冷戦後も多くの軍事工場がオムスクに集中し人口も増えたが、これは良いことばかりでもなかった。オムスクは軍事工場の集中する都市であるため外国人の立ち入りを統制する閉鎖都市となり、1990年代以降はソ連崩壊と冷戦終結による軍需の収縮で多くの失業者が出る結果になった。 レニングラードにあった OKUMO 戦車設計局の一部が1941年に、戦前はレニングラードに、戦後はチェリャビンスクにあったS.M.キーロフ記念第185工場が1962年にオムスクに移転している。両社が統合したオムスク戦車工場(Omsk Transmash)は1970年代以降T-80戦車を生産し、BTR-T歩兵戦闘車、TOS-1ロケットランチャー、試作型主力戦車チョールヌィイ・オリョール(ブラックイーグル)などを開発したが2002年に破産宣告された。 1950年代、シベリア西北部で石油や天然ガスの開発が始まると、オムスクに石油精製施設が建設され、イルティシュ川に沿ってオムスクの北方へ石油化学工場や労働者のアパートが広がった。この石油化学コンビナートは21世紀初頭でもロシア最大、ヨーロッパ全体でも三位以内に入る。ガスプロム傘下の石油会社カスプロム・ネフチ(かつてのシブネフチ)がオムスク最大の雇用主であり、巨額の納税をてこにして地元政界に大きな影響力を持つ。ソ連崩壊後は巨額の利益の上がる石油関係産業を手に入れようとして、党エリート、ビジネスマン、マフィアらが争ったほか、石油関係産業を巡る政治家との癒着や詐欺事件などもしばしば報道される。
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