ソ連および東ドイツにて
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「オットー・ブラウン (共産主義者)」の記事における「ソ連および東ドイツにて」の解説
1939年から1941年の間は、モスクワの外国文書翻訳所 (de)に勤務する。その後1946年まで、ソ連の自由ドイツ国民委員会 (de) のメンバーとなり、政治教官として各地の捕虜収容所に赴く。その後は翻訳家としてモスクワ及びモスクワ郊外のクラスノゴルスクに住み、1951年からはフリーの作家となった。 1953年にスターリンが死ぬと東ドイツに赴き、ドイツ社会主義統一党のメンバーとなる。東ドイツではマルクス主義研究院社会科学研究所で翻訳活動に従事する。レーニンやショーロホフの著作のドイツ語訳などを行ったが、発表されたものは少ない。1961年から1963年の間は東ドイツ作家協会 (de)のエルヴィン・シュトリットマター (de)の第1秘書となる。また、中国共産党とソ連共産党が対立していた1959年から1964年の間には、たびたび中国を批判する文章の発表を行った。1967年には愛国功労勲章(ドイツ語版)を受け、1969年には東ドイツ国家勲章 (de) を授与され、1970年には独ソ戦の功績でカール・マルクス勲章とレーニンメダルを授与される。 1973年に『Chinesische Aufzeichnungen (1932-1939)』(中国の記録)を発表し、延安在住時代の毛沢東と中共国際派の王明らとの陰惨な対立について記した。この本は長らく中国で完全発禁処分となっていたが、最近では規制が緩くなり、中国の歴史学者によって、初期中国共産党の研究に比較的数多く引用されている。
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