スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代
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「高橋尚子」の記事における「スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代」の解説
2003年6月、スカイネットアジア航空と2005年5月までの2年間の所属契約を結んだ。佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出の指導を受ける。 2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年8月のアテネオリンピック・女子マラソン日本代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10度高い、季節はずれの気温24〜25度の高温と風速3〜6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自らが飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速する。39km地点でエルフェネッシュ・アレム(エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したもののゴールタイムは2時間27分21秒で2位。6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなった。 その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。代表は2004年3月15日、午後3時に正式発表。テレビでは午後2時に高橋落選を速報テロップで流し、ある新聞の夕刊の一面では「Qちゃん五輪代表へ」と結果的に誤報を伝えたほど混迷していた。選考はコース・気象条件なども異なる東京・大阪・名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず(3名枠のうち、前年8月の世界陸上選手権で2位になった野口みずきは内定済)、結局高橋は優勝できなかったこと、ゴールタイムやレース内容も悪かったことなどの理由で落選(日本陸連が選出した他選手は土佐礼子・坂本直子。補欠は千葉真子)。五輪連覇の夢は潰えた。しかし、高橋はシドニー五輪以降も世界記録を樹立するなど、毎年高いレベルの記録で優勝している実績があり、この結果は賛否両論で大きな騒動となった。NHKや民放各局は高橋と小出監督の会見を生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は高橋落選を一面トップで伝えた。 2004年5月に秋のマラソンで自己記録更新を目指しアメリカ・ボルダーに合宿のため渡米したが、6月の練習中に転倒して胸を強打する。その後も度重なる怪我により秋のマラソン出場は断念。さらに同年10月には練習中に足首を捻り右足首を骨折した。 2005年5月9日、小出監督指導体制から独立することを発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。高橋はこのとき33歳であった。
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