ケープの境界をめぐる戦い (1779-1879)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:25 UTC 版)
「ボーア人」の記事における「ケープの境界をめぐる戦い (1779-1879)」の解説
詳細は「:en:Xhosa Wars」を参照 ケープ植民地から南アフリカの東ケープ地域に入っていくトレックボーア達の移住だが、その場所には先住民のコサ人が既に居留地を作っていたため、ボーア人とコサ人の間で一連の紛争が勃発した。1775年、ケープ政府が川を挟んでトレックボーア達とコサ人との境界を確立したが、双方ともこの境を無視して境界からはみ出た場所に住居を建てた。ファン・プレッテンバーグ総督が境界線を尊重するよう双方に説得を試みたものの、上手くいかなかった。コサ人は牛を盗んだとして訴えられ、1779年に境界沿いで一連の小競り合いが勃発すると、第1次境界戦争(1st Frontier War)が始まった。 境界が不安定なまま、1789年に第2次境界戦争が勃発した。ボーア人とコサ人が境界の両側で行った襲撃はこの地域で多くの摩擦を引き起こし、その結果いくつかの部族が紛争に引き込まれた。イギリスによる1795年のケープ植民地侵攻(ミューゼンバーグの戦い)が政権交代をもたらした。政権奪取後にイギリスは境界を引く政策に着手し、グラーフ=ライネでボーアの反乱が起きる結果となった。この政策がコイサン族をコサ族に加担させてしまい、第3次境界戦争(1799-1803)中にイギリス軍に攻撃する原因となった。 1803年に、イギリス側がアミアン講和条約に基づいてケープ植民地をバタヴィア共和国(現:オランダ)に返還したことで、平和が戻った。1806年1月の第二次侵攻中にイギリスはブラウベルクの戦いを経てこの植民地を占領した。ズールヴェルト(現:東ケープ州)の緊張により、植民地政権とボーア入植者はこの地域から多数のコサ人を追放するべく1811年に第4次境界戦争を始めた。1819年には境界地にいつコサ人との対立で第5次境界戦争が始まった。 コサ人は、自分達が居住を許された場所に関して政府の政策に不満があったため、境界で大規模な牛の盗難を引き受けた。ケープ政府はいくつかの軍事遠征で対応した。1834年に大規模なコサ軍がケープの領土に移動して、第6次境界戦争が始まった。追加の要塞が政府によって建設され、騎馬巡回はコサ人に快く受け入れられず、第7次境界戦争(1846-1847)中に彼らは農場への襲撃を続行した。その後も第8次境界戦争(1850-1853)と第9次境界戦争(1877-1878)が続き、最終的にコサ人は敗北して、領土はイギリスの支配下に置かれた。
※この「ケープの境界をめぐる戦い (1779-1879)」の解説は、「ボーア人」の解説の一部です。
「ケープの境界をめぐる戦い (1779-1879)」を含む「ボーア人」の記事については、「ボーア人」の概要を参照ください。
- ケープの境界をめぐる戦いのページへのリンク