キャリア:1972年 - 1976年とは? わかりやすく解説

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キャリア:1972年 - 1976年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:53 UTC 版)

ロキシー・ミュージック」の記事における「キャリア:1972年 - 1976年」の解説

ブライアン・フェリー労働者階級(父は農業労働者)に生まれ、ザ・ガス・ボードなどのバンド音楽活動おこなった。彼は女子校美術講師しながら陶芸創作活動していたが、1971年に、ロバート・フリップ率いキング・クリムゾン新しボーカリスト応募したオーディション受けたのは、フェリーボズ・バレルクリムゾンマネージャーらで、採用されたのはバレルであった。しかしフリップもう一人中心メンバーピート・シンフィールド二人は、フェリークリムゾンイメージには合わない良いセンス持っている感じたので、自分達の所属事務所であったEGに彼を紹介した。これをきっかけに、彼の運が開かれることになる。 ロキシー・ミュージックはこの時期に既に存在していたようで、メンバーにはフェリーボーカルキーボード)、彼の大学時代からの友人グラハム・シンプソンベース)、ロジャー・バン(ギター)、デヴィッド・オリストギター、元ナイス)、デクスター・ロイド(ドラム)らがいたことが知られている。その後キーボーディスト募集雑誌広告見て管楽器プレーヤーとして応募してきたアンディ・マッケイサックスオーボエ)と、彼が連れてきた友人ブライアン・イーノシンセサイザー)が加入した。またフィル・マンザネラサウンドミキサー肩書きイーノ助手のような役割参加し、さらにロイド脱退伴ったドラマー募集雑誌広告見て応募してきたポール・トンプソン加入した。そしてオリスト脱退機にマンザネラがギター担当かくしてメジャー・デビュー時のラインナップ1971年末までに揃ったいわゆるデビュー前の「ハコ回り」の類がないというのは異例である。 ロキシー・ミュージック1971年12月24日のファースト・ライブでEG関係者納得させ、翌1972年2月14日マネジメント契約勝ち取る6月には1stアルバムロキシー・ミュージック』、7月には1stシングル「バージニア・プレイン」を発表。彼らのメジャー・デビューデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』が発売され直後のグラム・ロック・シーン全盛期ロンドンにおいてであり、彼らはグラム・ロック一派と見なされたこの年NMEによる各部門賞で新人賞受賞したその後、彼らはボウイの「ジギー・スターダスト英国ツアーのサポート・アクトの傍ら精力的にレコーディングなどを行い1973年3月には早くも2ndアルバムフォー・ユア・プレジャー』を発表。「男装の麗人」アマンダ・レアが登場したジャケット話題となるとともに、グラム・ノワール(Gram noir)と形容されたサウンド注目集め、英チャート上位食い込む成功を収める。しかし、フェリーとともにバンド創設時からのメンバーだったシンプソンは既に脱退しており、このアルバムでは後にスミス手がけるジョン・ポーターベース担当した。そしてアルバム発表された後、フェリー並んで注目集めていたイーノ脱退したイーノ脱退ロキシー音楽大きな転機と言えた。バンドは元カーヴド・エアキーボーディスト兼ヴァイオリ二ストエディ・ジョブソン迎えて1973年11月3rdアルバムストランデッド』を発表。前2作の喧騒あふれた未来派的なサウンド薄め代わりに、「ヨーロッパ浪漫主義方向」を目指しはじめる。「ノンプレイヤーバンドであったロキシーにあって確かな演奏技術を持つジョブソンの存在大きな意味を持ち、この時期ロキシーファン根強い人気誇ったフェリーグループ活動並行して1973年10月ソロ・アルバム発表ボブ・ディランプラターズザ・ビーチ・ボーイズらをカバーし好評得た1974年11月4thアルバムカントリー・ライフ発表。更に耽美叙情性増した音楽性さることながらシースルー下着着け女性2人というジャケット物議を醸すカナダでは女性2人消されドイツでは1人の顔だけをアップにし、アメリカでは袋入り発売される等、国ごと様々な措置取られた。右側の黒い下着女性は、もとは男性である。 1975年10月5thアルバムサイレン発表ジャケット写っている女性モデルジェリー・ホールは、当時フェリー恋人だった。本作からの先行シングル恋はドラッグLove Is the Drug)」は、全英2位全米30位のヒット記録し一躍ロキシー・ミュージックの名を広めた。しかし、ツアー終了後ロキシー・ミュージック解散1976年発表ライブ盤VIVA!ロキシー・ミュージック』が最後アルバムとなったフェリー1976年から1977年にかけてソロ・アルバムで「レッツ・スティック・トゥゲザー」「東京ジョー」などの代表曲発表し1977年にはマンザネラとトンプソンバック従えて来日した

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