キャリア:1972年 - 1976年
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「ロキシー・ミュージック」の記事における「キャリア:1972年 - 1976年」の解説
ブライアン・フェリーは労働者階級(父は農業労働者)に生まれ、ザ・ガス・ボードなどのバンドで音楽活動をおこなった。彼は女子校の美術講師をしながら陶芸の創作活動していたが、1971年に、ロバート・フリップ率いるキング・クリムゾンの新しいボーカリストに応募した。オーディションを受けたのは、フェリー、ボズ・バレル、クリムゾンのマネージャーらで、採用されたのはバレルであった。しかしフリップともう一人の中心メンバーのピート・シンフィールドの二人は、フェリーはクリムゾンのイメージには合わないが良いセンスを持っていると感じたので、自分達の所属事務所であったEGに彼を紹介した。これをきっかけに、彼の運が開かれることになる。 ロキシー・ミュージックはこの時期に既に存在していたようで、メンバーにはフェリー(ボーカル、キーボード)、彼の大学時代からの友人のグラハム・シンプソン(ベース)、ロジャー・バン(ギター)、デヴィッド・オリスト(ギター、元ナイス)、デクスター・ロイド(ドラム)らがいたことが知られている。その後、キーボーディスト募集の雑誌広告を見て管楽器プレーヤーとして応募してきたアンディ・マッケイ(サックス、オーボエ)と、彼が連れてきた友人ブライアン・イーノ(シンセサイザー)が加入した。またフィル・マンザネラがサウンドミキサーの肩書きでイーノの助手のような役割で参加し、さらにロイドの脱退に伴ったドラマー募集の雑誌広告を見て応募してきたポール・トンプソンが加入した。そしてオリストの脱退を機にマンザネラがギターを担当。かくしてメジャー・デビューの時のラインナップが1971年末までに揃った。いわゆるデビュー前の「ハコ回り」の類がないというのは異例である。 ロキシー・ミュージックは1971年12月24日のファースト・ライブでEG関係者を納得させ、翌1972年の2月14日にマネジメント契約を勝ち取る。6月には1stアルバム『ロキシー・ミュージック』、7月には1stシングル「バージニア・プレイン」を発表。彼らのメジャー・デビューはデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』が発売された直後のグラム・ロック・シーン全盛期のロンドンにおいてであり、彼らはグラム・ロック一派と見なされた。この年のNMEによる各部門賞で新人賞を受賞した。 その後、彼らはボウイの「ジギー・スターダスト」英国ツアーのサポート・アクトの傍ら精力的にレコーディングなどを行い、1973年3月には早くも2ndアルバム『フォー・ユア・プレジャー』を発表。「男装の麗人」アマンダ・レアが登場したジャケットが話題となるとともに、グラム・ノワール(Gram noir)と形容されたサウンドが注目を集め、英チャート上位に食い込む成功を収める。しかし、フェリーとともにバンドの創設時からのメンバーだったシンプソンは既に脱退しており、このアルバムでは後にスミスを手がけるジョン・ポーターがベースを担当した。そしてアルバムが発表された後、フェリーと並んで注目を集めていたイーノが脱退した。 イーノの脱退はロキシーの音楽の大きな転機と言えた。バンドは元カーヴド・エアのキーボーディスト兼ヴァイオリ二ストのエディ・ジョブソンを迎えて、1973年11月に3rdアルバム『ストランデッド』を発表。前2作の喧騒にあふれた未来派的なサウンドを薄める代わりに、「ヨーロッパ浪漫主義的方向」を目指しはじめる。「ノンプレイヤーのバンド」であったロキシーにあって確かな演奏技術を持つジョブソンの存在は大きな意味を持ち、この時期のロキシーはファンの根強い人気を誇った。フェリーはグループ活動と並行して、1973年10月にソロ・アルバムを発表。ボブ・ディラン、プラターズ、ザ・ビーチ・ボーイズらをカバーし、好評を得た。 1974年11月、4thアルバム『カントリー・ライフ』発表。更に耽美・叙情性を増した音楽性もさることながら、シースルーの下着を着けた女性2人というジャケットが物議を醸す。カナダでは女性2人が消され、ドイツでは1人の顔だけをアップにし、アメリカでは袋入りで発売される等、国ごとに様々な措置が取られた。右側の黒い下着の女性は、もとは男性である。 1975年10月、5thアルバム『サイレン』発表。ジャケットに写っている女性モデル、ジェリー・ホールは、当時フェリーの恋人だった。本作からの先行シングル「恋はドラッグ(Love Is the Drug)」は、全英2位・全米30位のヒットを記録し、一躍ロキシー・ミュージックの名を広めた。しかし、ツアー終了後にロキシー・ミュージックは解散。1976年発表のライブ盤『VIVA!ロキシー・ミュージック』が最後のアルバムとなった。フェリーは1976年から1977年にかけてソロ・アルバムで「レッツ・スティック・トゥゲザー」「東京ジョー」などの代表曲を発表し、1977年にはマンザネラとトンプソンをバックに従えて来日した。
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