ガリポリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 22:22 UTC 版)
ガリポリの戦い(ガリポリのたたかい、英語: The Gallipoli Campaign、トルコ語: Çanakkale Muharebeleri[7])は、第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島(現・トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦。ガリポリ半島とは英語名であり、現在トルコ語でゲリボル半島と呼ばれている。また、ガリポリ(ゲリボル)の町は半島の付け根にあり、主戦場から外れている。イギリスではこの戦いをダーダネルス戦役と、トルコではチャナッカレの戦い(トルコ語: Çanakkale Savaşı)と呼ぶ。
- ^ a b Erickson 2001a, pp. 94–95.
- ^ Erickson 2015, p. 178.
- ^ Rance 2017, pp. 16–17.
- ^ a b c Erickson 2001a, p. 94.
- ^ Aspinall-Oglander 1929, p. 395.
- ^ Erickson 2001a, p. 327.
- ^ Suat İlhan, Çanakkale Muharebeleri, Atatürk Araştırma Merkezi Dergisi, Sayı 30, Cilt: X, Kasım 1994, Çanakkale Zaferi'nin 80. Yıldönümü Özel Sayısı.
- ^ “「ガリポリの戦い」で沈没した戦艦群を一般公開 トルコの海中博物館”. AFP (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
- 1 ガリポリの戦いとは
- 2 ガリポリの戦いの概要
- 3 背景
- 4 影響
- 5 戦後
- 6 参考文献
ガリポリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
詳細は「ガリポリの戦い」を参照 一方、英仏両軍はオスマン帝国に対しては本土侵攻を企図した。2月19日、連合国軍のダーダネルス作戦が始まり、英仏艦隊がダーダネルス海峡の沿岸要塞(オスマン帝国領)を艦砲射撃した。連合国軍の目的は首都コンスタンティノープルを脅かすことによってオスマン帝国を戦争から脱落させ、黒海を経由するロシアの補給路を回復することだった。3月18日、イギリスのジョン・デ・ロベック(英語版)提督率いる艦隊が突破を試みたが、戦艦3隻を喪失、ほか損傷した戦艦もあった。その結果、連合国は上陸作戦でダーダネルス海峡を開かせることを決定した。イギリスは既にアレクサンドレッタに上陸してオスマン帝国の南部地域を中枢のアナトリア半島から切り離すことを計画していた。 連合国軍はギリシャ王国の中立を侵犯して、エーゲ海のリムノス島をオスマン帝国攻撃の拠点として占領していた。そして、4月25日にはリムノス島から出撃して連合国軍はガリポリ半島とアジア側の対岸にあるクンカレ(英語版)に上陸した。戦艦11隻が援護についた船200隻がイギリスの地中海遠征軍(英語版)78,000人とフランスの東方遠征軍(英語版)17,000人を運んだ。イギリスの遠征軍にはオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) も含まれ、この戦闘がANZACの初戦となった。結局攻撃は失敗したが、その理由はオスマン軍の予想以上の抵抗であり、オットー・リーマン・フォン・ザンデルス率いるオスマン第5軍(英語版)が活躍した。中でもムスタファ・ケマル・ベイ率いる第19歩兵師団(英語版)が頭角を現し、ムスタファ・ケマルが国民的英雄としての名声を得るきっかけの一つとなった。連合国軍50万人以上が投入されたこの戦役は1916年1月9日に連合国軍が撤退したことで終結、死者は両軍の合計で11万人となっている。
※この「ガリポリの戦い」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「ガリポリの戦い」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- ガリポリの戦いのページへのリンク