カルチョ・カターニア
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カターニアFC(Catania FC)は、イタリア・カターニアを本拠地とするサッカークラブ。パレルモとの対戦はデルビー・ディ・シチリアと呼ばれる。以前に元日本代表の森本貴幸が所属していたことでも有名。
- 1 カルチョ・カターニアとは
- 2 カルチョ・カターニアの概要
カルチョ・カターニア
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「ディエゴ・シメオネ」の記事における「カルチョ・カターニア」の解説
2011年1月、解任されたマルコ・ジャンパオロの後任としてセリエAのカルチョ・カターニアの監督に就任した。セリエA残留という目標を果たし、2010-11シーズン終了後の2011年6月1日にカルチョ・カターニアの職を離れた。
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カルチョ・カターニア
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2006年7月23日、イタリア・セリエAに昇格したカターニアへの1年間のレンタル移籍が決定。移籍後しばらくの間はユースチームでプレーしていたが、そこでゴールを量産したことが認められ、12月3日のアスコリ戦で初のベンチ入りを果たした。 2007年1月29日(日本時間)、アタランタ戦の後半39分から初出場し、後半43分に初ゴールを決めた(出場・ゴールともにセリエA日本人最年少記録)。3月6日の練習中、左膝前十字靭帯断裂の大けがを負い、シーズン残りを棒に振った。6月17日、代理人のジョヴァンニ・ブランキーニがカターニアへの完全移籍が完了したことを明らかにした。 2007年8月26日、シーズン開幕となるパルマ戦で自身初スタメンとなり1ゴール、1アシストを記録。怪我からの復活を果たしたが、このシーズンのリーグ戦でのゴールはこの1点のみにとどまった。シーズン後の2008年8月には北京オリンピックサッカー日本代表メンバーに選出。2試合に出場したが活躍をみせられず、チームも3戦全敗でグループリーグで敗退した。 2008年12月、カターニアが森本との契約を2011年6月末まで延長したことを発表。2008年最終戦となる12月24日のホームでのローマ戦では初のドッピエッタ(1試合2得点)を達成。マンオブザマッチに選ばれ、その節のベストイレブンにも選出された。2009年最初の試合となったアウェーでのナポリ戦では、前節での活躍から初めてキャプテンを任されたが、試合には1-0で敗れた。2月8日、ホームでのユヴェントス戦で1得点を挙げた。日本人選手でユベントスからの得点は、元日本代表の中田英寿以来。3月1日、アウェイでのパレルモ戦(シチリアダービー)では前半だけで1ゴール、1アシストの大活躍を見せた。結局、このシーズンはリーグ戦23試合出場で7ゴールを記録し、飛躍の年となった。 2009-10シーズン開幕戦の2009年8月24日のサンプドリア戦では自身2度目となる開幕戦ゴールを記録。カターニアでの活躍が認められ9月のオランダ遠征でA代表に初選出されたが、左太ももの違和感のため辞退した。翌月には再び日本代表に選出され、10月10日のキリンチャレンジカップ・スコットランド戦で代表デビューを果たした。続く10月14日のトーゴ戦では代表初スタメンとなり、相手DFを背負いながら反転してシュートを決めて代表初得点も記録した。しかし、その後はチャンスこそ作るものの決定機でシュートをGKに当ててしまうなどスランプに陥り、クラブで4ヶ月得点が奪えず冬に加入したアルゼンチン人FWマクシミリアーノ・ロペスにスタメンを奪われ出場機会が減った。2010年6月に南アフリカで行われた2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出されたが本大会での出場機会はなかった。 2010-11シーズンは出場機会に恵まれず、ほとんどが途中出場となり12試合1得点と低調な成績に終わった。2011年1月からは闘将ディエゴ・シメオネの元で指導を受けた。しかしシーズン終盤には移籍を希望した。
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