オーストロファシズム
オーストロファシズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 07:34 UTC 版)
「クルト・シュシュニック」の記事における「オーストロファシズム」の解説
1934年7月25日、ドルフースがオーストリア・ナチスに暗殺されると、シュシュニックは7月29日に後任として首相に就任し、オーストロファシズムと呼ばれる独裁体制を構築した。ドルフースが実施した国民議会の停止や社会主義者への弾圧を継続し、9月までの間に1万3,338人の政治犯を逮捕し、さらには経済統制を実施した。また、1935年には「オーストリアの評判の保護のための連邦法」を制定して海外メディアの報道を統制し、1936年10月には護国団を解散した。 シュシュニックはドルフースと同様にナチスを嫌悪しており、カトリック保守的なイタリアのベニート・ムッソリーニに依存していたが、第二次エチオピア戦争でイタリアが国際的に孤立すると、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの圧力が増してきた。そのため、1936年7月11日にドイツとの間で7月合意(ドイツ語版)を締結し、ドイツからオーストリアの主権を認めさせたが、見返りとしてオーストリア・ナチスの政治参加を承認し、ドイツ寄りのエドムント・グライズ=ホルシュテナウ(ドイツ語版)、グイド・シュミット(ドイツ語版)を無任所大臣、外務大臣として入閣させた。これにより、オーストロファシズムは崩壊を始め、シュシュニック政権は危機感を募らせていく。
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オーストロ・ファシズム
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「第一共和国 (オーストリア)」の記事における「オーストロ・ファシズム」の解説
ドルフス首相の下で確立されたこの独裁体制は、オーストロファシズムと呼ばれている。ここでは「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が、議会に代わって政府に対する補助機関として組織されるコーポラティズム体制が採用された。また、カトリック教会が国教と規定され精神的支柱となったことから宗教的な共通点の多いイタリアのベニート・ムッソリーニ政権と親密な関係を有していた。しかしこのことは、あくまで独墺合邦を追求するナチ党およびその意を体したオーストリア・ナチ党員との対立を呼び起こすこととなり、体制樹立後間もない7月25日、ドルフスはクーデタを試みたオーストリア・ナチ党員に射殺された。クーデタ自体は阻止され、後任の首相にはクルト・シュシュニック教育相が就任した。クーデターの失敗後、ヒトラー政権は副首相フランツ・フォン・パーペンを大使として派遣し、両国関係の沈静化を図ったが、ホスバッハ覚書にあるように、オーストリア併合をあきらめてはいなかった。
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