内戦の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 15:48 UTC 版)
民兵や治安部隊、民間人を含めて数百人が武力衝突で死亡し、1000人以上が負傷した。当局は戒厳令に基き、共和国保護同盟や社会民主党の指導者を即決裁判にかけ、コロマン・ヴァリッシュ(de:Koloman Wallisch)を含む9人を処刑した。このほかに1500人が逮捕された。社会主義の指導的立場にあった政治家オットー・バウアー外務大臣やドイッチュも亡命を余儀なくされた。 1934年2月に起きた一連の出来事は、政府によって、社会民主党やそれと連携していた労働組合を完全に禁止する口実として使われた。5月になると、保守派は民主的な憲法をファシスト・イタリアのベニート・ムッソリーニの方針を手本としたコーポラティズム的な憲法へと改正した。この権威主義的な独裁体制を名づけるべく、社会主義者はオーストロファシズムという用語を発明した。ただし、オーストリアの保守派の基本的なイデオロギーは、オーストリアのカトリック教会聖職者の間で共有されていた最も保守主義的な要素と本質的には同じものであり、イタリアやドイツの実際のファシズムやナチズムとは矛盾する特徴を有していた。 1934年5月に新憲法が制定され、祖国戦線が唯一の政治的組織となった。
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