だいいち‐きょうわせい【第一共和制】
第一共和政
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第一共和政(だいいちきょうわせい)、第一共和国(だいいちきょうわこく)
- 1 第一共和政とは
- 2 第一共和政の概要
第一共和政
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「連邦首相 (オーストリア)」の記事における「第一共和政」の解説
代連邦首相の氏名所属政党在任期間連立与党1 カール・レンナーKarl Renner(Staatskanzler) オーストリア社会民主労働党(SDAPÖ) 1918年11月12日- 1920年7月7日 キリスト教社会党 (CS)大ドイツ人民党 (GDVP) 2 ミヒャエル・マイアーMichael Mayr キリスト教社会党(CS) 1920年7月7日- 1921年6月21日 社会民主労働党 (SDAPÖ) 3ヨハン・ショーバーJohann Schober(第1次) 無所属(官僚) 1921年6月21日- 1922年1月26日 キリスト教社会党 (CS)大ドイツ人民党 (GDVP) 4 ヴァルター・ブライスキーWalter Breisky キリスト教社会党(CS) 1922年1月26日- 1922年1月27日 なし 5ヨハン・ショーバーJohann Schober(第2次) 無所属(官僚) 1922年1月27日- 1922年5月31日 キリスト教社会党 (CS)大ドイツ人民党 (GDVP) 6 イグナーツ・ザイペルIgnaz Seipel(第1次) キリスト教社会党(CS) 1922年5月31日- 1924年11月20日 大ドイツ人民党 (GDVP) 7 ルドルフ・ラメクRudolf Ramek キリスト教社会党(CS) 1924年11月20日- 1926年10月20日 大ドイツ人民党 (GDVP) 8 イグナーツ・ザイペルIgnaz Seipel(第2次) キリスト教社会党(CS) 1926年10月20日- 1929年5月4日 大ドイツ人民党 (GDVP)農民同盟 9 エルンスト・シュトレールヴィッツErnst Streeruwitz キリスト教社会党(CS) 1929年5月4日- 1929年9月26日 農民同盟 10ヨハン・ショーバーJohann Schober(第3次) 無所属(官僚) 1929年9月26日- 1930年9月30日 キリスト教社会党 (CS) 11 カール・ファウゴインKarl Vaugoin キリスト教社会党(CS) 1930年9月30日- 1930年12月4日 なし 12 オットー・エンダーOtto Ender キリスト教社会党(CS) 1930年12月4日- 1931年6月20日 なし 13 カール・ブレシュKarl Buresch キリスト教社会党(CS) 1931年6月20日- 1932年5月20日 農民同盟 14 エンゲルベルト・ドルフースEngelbert Dollfuß キリスト教社会党 (CS) 1932年5月20日- 1933年3月4日 農民同盟護国団 祖国戦線(VF) 1933年3月4日- 1934年7月25日 独裁政治(オーストロファシズム) 15クルト・シュシュニックKurt Alois Josef Johann Schuschnigg 祖国戦線(VF) 1934年7月29日- 1938年3月11日 独裁政治(オーストロファシズム) 16アルトゥル・ザイス=インクヴァルトArthur Seyß-Inquart 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党) 1938年3月11日- 1938年3月13日 ナチス・ドイツへ併合 ^ 議会を停止して、民主政から独裁体制へと転換。ドルフースとシュシュニックを中心としたオーストロファシズム体制が形成された。 ^ 第一共和政最後の連邦大統領ヴィルヘルム・ミクラスは、ナチス体制から強い圧力を受けて、オーストリア国家社会主義者のザイス=インクヴァルトを連邦首相に任命した。ザイス=インクヴァルトはドイツへの合邦を進めるために、連邦首相の機能を停止させた。
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第一共和政(1873年 - 1874年)
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「スペインの国章」の記事における「第一共和政(1873年 - 1874年)」の解説
アマデオ1世退位後、第一共和政が始まった。しかし政情は安定せず、頻繁に首相が交代した。結局1874年12月29日にアルフォンソ12世が即位し、第一共和政は終わりを告げた。
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第一共和政(1828年 - 1833年)
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「ギリシャの大統領」の記事における「第一共和政(1828年 - 1833年)」の解説
総督(Κυβερνήτης)肖像生没年任期備考イオアニス・カポディストリアス 1776年2月11日 - 1831年10月9日 1828年1月24日 - 1831年10月9日 アウグスティノス・カポディストリアス 1778年 - 1857年 1831年10月9日 - 1832年4月9日 イオアニスの弟。兄の暗殺により、臨時政府委員長を務める。 統治評議会 1832年4月9日 - 1833年2月2日 王制移行まで暫定統治
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第一共和政 (1792年 - 1804年)
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「フランスの大統領」の記事における「第一共和政 (1792年 - 1804年)」の解説
国民公会 1792年 - 1795年 国民公会議長 2週間ごとに改選され期間中のべ77代を数えた。(フランス語版)アメリカ型の大統領制についての提案もあったが議論の末、否決された。公安委員会 1793年 - 1794年 ジョルジュ・ダントン、マクシミリアン・ロベスピエールほか。事実上の権力者。 総裁政府 1795年 - 1799年 総裁 定員5名 (フランス語版) 総裁政府1795年11月 ジャン=フランソワ・ルーベル ポール・バラス ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポー エティエンヌ=フランソワ・ル・トゥルヌール ラザール・カルノー 1797年5月 フランソワ・バルテルミー 1797年9月 メルラン・ド・ドゥーエー(フランス語版) フランソワ・ド・ヌーシャトー(フランス語版) 1798年5月 ジャン=・バティスト・トレヤール(フランス語版) 1799年5月 エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス 1799年6月 ロジェ・デュコ ジャン=フランソワ・ムーラン(フランス語版) ルイ・ゴイエ 執政政府 1799年 - 1804年 第一統領 ナポレオン・ボナパルト
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第一共和政(1792年 - 1804年)
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「フランス君主一覧」の記事における「第一共和政(1792年 - 1804年)」の解説
1792年より1804年までフランスは共和政体(第一共和政)であった。1804年にナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝として即位した。
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第一共和政
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詳細は「フランス第一共和政」および「フランス革命戦争」を参照 1792年の春にジロンド派が政権を握り、オーストリアに対して宣戦布告を行う。8月にはオーストリアとプロイセンがルイ16世の救援を各国君主に呼びかけるピルニッツ宣言が行われる中、8月10日に国王一家がいたテュイルニー宮殿を襲撃する8月10日事件が発生し王権が停止する。9月には男性普通選挙による国民公会が成立し、共和制の樹立が宣言された。 国民公会では急進共和派のジャコバン派が勢力を増し、1793年1月にはルイ16世が処刑された。 こうした革命の流れがイギリスに波及することを恐れた英首相ウィリアム・ピットはフランス軍のベルギー地方への侵入に対抗する形でフランス包囲の大同盟である第1回対仏大同盟を形成した。このためヨーロッパを敵に回したフランス国内では、王党派と結びついた農民反乱が広がった。ヴァンデーの反乱がそれに相当する。6月にはジャコバン派が事態を乗り切るためにジロンド派を議会から追放し、男性普通選挙を定めた1793年憲法の制定や、封建地代の無償廃止、亡命した貴族の土地の競売や最高価格令に伴う強力な価格統制など、都市部の民衆や農民の支持を確保するための政策を採用した。同年、ルーヴル宮殿が「共和国美術館」として使用されることが決まり、宮殿に所蔵されていた王室のコレクションは、王室の私有財産ではなく、国有財産となった。 ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は、強大な権限を持つ公安委員会を設置し、革命防衛のための徴兵制や亡命禁止法、革命暦を導入し、理性崇拝の宗教である「理性の祭典」を創始するなどの急進的な政策を打ち出す一方で、反革命派や王妃マリー・アントワネット、王党派のダントンらを処刑し、恐怖政治を行った。 しかし、外部勢力の排除などが落ち着き、対外勢力からの脅威が遠のくと、小土地所有農民や経済的自由を求める市民層が保守化し、独裁に対する不満が高まり、1794年にはテルミドールのクーデターが発生し、ロベスピエールは失脚し、彼とその一派は処刑された。ジャコバン派が没落すると、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた1795年憲法が制定され、国民公会と革命裁判所は解散、そして総裁政府が樹立する。しかし社会不安は続き、1796年5月には私有財産の廃止を唱え、政府転覆を画策していたバブーフが逮捕され、死刑を宣告されるなどの事件が起こった。1797年10月には、フランス革命戦争で交戦を続けていたイギリス以外の全ての国と休戦をするカンポ・フォルミオ条約が締結される。1798年、ジャコバン派と総裁政府の影響を受け、当時スイスの飛び地であったミュルーズを併合した。11日にはジュネーブも併合された。1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立し独裁権を掌握した。
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