オブセルヴァンティス改革運動とカプチン会、コンヴェントゥアル派
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「フランシスコ会」の記事における「オブセルヴァンティス改革運動とカプチン会、コンヴェントゥアル派」の解説
「カプチン・フランシスコ修道会」も参照 1378年から1417年にかけてのいわゆる「教会大分裂」の時代には、フランシスコ会もそれぞれの教皇を支持して分立する状態となった。 教会大分裂がおこったときの総長はレオナルド・ロッシ(英語版)であったが、アヴィニョン教皇のクレメンス7世を支持したために、ローマの教皇ウルバヌス6世はルドヴィゴ・ドナティを総長代理とするなどフランシスコ会の人事に介入した。1409年にピサで公会議派の教皇アレクサンデル5世が選出されると、当時のローマ派の総長アントニオ・ヴィニティはピサ派に同調し、ローマは別の総長を立て、フランシスコ会も三分した。分立した各教皇は自派にフランシスコ会を引き込んで、さまざまな恩典を付与したために、フランシスコ会は再び分裂したのみならず内部の腐敗が進み、「清貧」の精神は弛緩した。それぞれの総長も自己の基盤をより確実なものにするために、これに乗じてさまざまな特典を会士たちに与えたので、規律の乱れはいっそう増長した。1471年にローマ教皇に就任したシクストゥス4世(コンヴェンツアル派)が教皇に選ばれた理由の1つは学識の高さであり、もう1つは有力者に気前よく賄賂を送ったことであった。教皇になってからも6人もの甥を枢機卿に任じて親族登用をおこない、縁故主義により親類縁者に金銭と役職を惜しみなくあたえた。 一方、修道会内では、14世紀後半以降15世紀にかけて、このような修道会内部の腐敗に厳しい批判を向け、会則を厳格に守ろうとする運動が起こってきた。彼らの標語「会則の遵守(レグラーリス・オブセルヴァンティア、Regularis observantia)」から、このような改革派(原始会則派)をオブセルヴァンティス派といい、かつてのスピリトゥアル派的主張を吸収した。これにに対して保守派(修道院派)はコンヴェントゥアル派と呼ばれた。コンヴェントゥアル(コンベンツァル)とは、「Convent」(共住・修道院)の語に由来するもので、当時、都会に所在する修道院やそこに定住する会員を指した。この呼称は、聖フランシスコの生きていた時代から存在した。会則派(改革派)の運動は継続的なものとなり、やがてフランシスコ会の主流を占め、さらに、16世紀には会則派のなかから、イタリアのレフォルマーティ派、フランスのレコレクト派、スペインのアルカンタラ派など内部改革の運動が生じた。 1517年、教皇レオ10世によってコンヴェンツアル派と改革派は正式に分割されたが、正式な修道会としての成立はレオ十三世の治世を待つ。主流派は改革派となった。 1525年には、イタリアのサン・ポーロ・デンツに近いモンテファルコーネ修道院でマテオ・ダ・バッシ(英語版)(マテオ・バスキ)が改革派(オブセルヴァンティス小さき兄弟会)のなかから後の「カプチン小さき兄弟会」を起こした。カプチン会は、1528年、ローマ教皇教皇クレメンス7世の認可を受け、こうして、修道会派・会則派・カプチン会の3つの分派が成立した。1538年には南イタリアのナポリでクララ会から分派した女子カプチン会も創設されている。カプチン会は当初は「コンベンツァル小さき兄弟会」の庇護下にあったが、1619年に認可され、独立の修道会となった。
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