アルビレックス新潟時代
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2006年1月13日、アルビレックス新潟に完全移籍。新潟に移籍直後の2月にトレーニング中に負傷。右膝靱帯損傷で全治2ヶ月と診断された。リハビリから通常練習に移行し始めていた5月、右膝前十字靱帯を断裂し全治5ヶ月と診断された。 2007年はシーズン初めより千代反田充とコンビを組んでセンターバックのレギュラーに定着した。9月22日の鹿島戦でまたも右膝靭帯を負傷し、リーグ戦22試合に出場、年間順位6位を経験した。 2008年は大きな怪我もなくシーズンを戦い抜きリーグ戦30試合に出場。 2009年は、足首の故障による欠場1試合を除く33試合に出場。この年の新潟は3トップが注目されたが、一方で千代反田、MF本間勲とのトライアングルで形成するセンターの守備は熟練したものになり、シーズンで08年の46失点を大きく下回る31失点を記録し、チームの上位進出に貢献した。 2010年9月2日、キリンチャレンジカップのパラグアイ戦、グアテマラ戦において、練習で右肋軟骨を負傷した闘莉王の代役として日本代表への追加招集を受け、7日のグアテマラ戦で長友佑都に代わり後半から出場、フル代表デビューした。リーグ戦ではリーグ戦全試合に出場。これはプロデビュー以来初めてのことであった。
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アルビレックス新潟時代
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10歳でサッカーを始め、三条サッカースポーツ少年団、レザーFSジュニアユースを経て、2006年にJAPANサッカーカレッジ高等部に進学し、開志学園高等学校に籍を置くとともに、アルビレックス新潟ユースに入団。寮生活によって、勉強とサッカーを両立させた。2008年には、2種登録選手としてトップチームにも在籍した。同年11月5日に昇格が発表された。2種登録期間中の11月15日、とりぎんバードスタジアムで行われた天皇杯5回戦(対戦相手: FC東京)に出場し、公式戦に初出場した。 2009年3月7日に味の素スタジアムで開催されたJ1第1節(対戦相手: FC東京)にてリーグ戦に初出場した。同年度は途中出場を中心にリーグ戦18試合に出場した。2010年度よりレギュラーとして試合出場するようになり、翌2011年10月1日の横浜F・マリノス戦(東北電力ビッグスワンスタジアム)にてプロ初得点を挙げた。
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アルビレックス新潟時代
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「鈴木大輔 (サッカー選手)」の記事における「アルビレックス新潟時代」の解説
2008年、アルビレックス新潟に入団し、翌年、第89回天皇杯2回戦奈良クラブ戦で公式戦初出場。 2010年、J1第9節ヴィッセル神戸戦でリーグ戦初出場。ナビスコカップグループリーグ第4節京都サンガF.C.戦で公式戦初得点を記録した。同年、各クラブの控えメンバーを中心としたU-21日本代表に選出され、広州アジア競技大会に出場。全7試合に出場し、史上初の金メダル獲得に貢献した。同大会後も関塚隆監督に重用され、ロンドン五輪アジア予選を戦った。 2011年、J1第1節アビスパ福岡戦での途中出場をきっかけにチャンスを掴み、徐々にレギュラーに定着。J1第13節浦和レッズ戦でリーグ戦初得点を記録した。 2012年、ロンドン五輪日本代表に選出され、オーバーエイジ枠で出場した吉田麻也と共にセンターバックを組み、過密日程の中全6試合に先発フル出場。メダルは逃したものの、44年ぶりのベスト4進出に貢献した。クラブでは最終節まで残留争いに巻き込まれたが、リーグ2位タイとなるシーズン通算34失点の堅守を支えた。
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