アルゴンキン・ラウンド・テーブルの時代
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「ドロシー・パーカー」の記事における「アルゴンキン・ラウンド・テーブルの時代」の解説
パーカーの経歴は、休暇を取っていたP・G・ウッドハウスの代役として、1918年に始めていた「バニティ・フェア」の演劇評論を書いたことで始まった。この雑誌に務めているときに、ロバート・ベンチリーと出遭って親密な友人となり、またロバート・E・シャーウッドとも出遭った。この3人はほとんど毎日アルゴンキン・ホテルで昼食を摂り始め、アルゴンキン・ラウンド・テーブルの設立メンバーとなった。その後メンバーとなった中には、新聞論説委員のフランクリン・ピアース・アダムズやアレクサンダー・ウールコットがいた。特にアダムズのコラムである「コニング・タワー」(展望塔)にパーカーが昼食時にコメントした言葉やその短詩を掲載することで、パーカーの機知が全国の評判を勝ちえるようになった。最も有名なコメントの1つは、無口で知られた元大統領カルビン・クーリッジの死を知らされた際の「どうしてわかった?」という一言だった。 パーカーの批評家としての辛辣な機知は当初評判を得たが、1920年にその批評が権力のある興行主をあまりにしばしば攻撃するようになった後で、「バニティ・フェア」によって止めさせられることになった。団結していたベンチリーとシャーウッドも抗議のために辞職した。 1925年にハロルド・ロスが「ザ・ニューヨーカー」を発刊すると、ロスがその投資家達を静めるために設立した「編集委員会」にパーカーとベンチリーが加わった。パーカーの最初の記事はその第2号に載った。その短く悪意のあるユーモア詩で有名になった。多くはその多くの(ほとんどは成功しなかった)情事について滑稽に思われるように叙述し、また自殺の魅力を考えているように沈んでいるものもあった。 その後の15年間は多作で成功した最も大きな時代だった。1920年代だけでも、「バニティ・フェア」、「ヴォーグ」、「コニング・タワー」と「ザ・ニューヨーカー」、さらに「ライフ」、「マッコールズ」、「ザ・ニュー・レパブリック」に300ほどの詩と自由詩を発表した。 1926年、最初の詩集である『イナフ・ロープ』を出版した。この詩集は47,000部が売れ、素晴らしい論評も集めた。「ザ・ネーション」はその詩を「塩辛いユーモアがこびりつき、幻滅の破片で荒れ、明るい黒の信憑性で塗られた」と表現していた。批評家の中には、とくに「ニューヨーク・タイムズ」の論評員のように、その作品を「バタバタする詩」とけなす者もいたが、この詩集でパーカーの湧き立つ機知という評判を確立させた。1928年には『日没の銃』、1931年には『死と税』という2冊の詩集を出版し、1930年には『生きるための哀歌』、1933年には『かような喜びの後で』という短編集2冊を発行した。1936年の『井戸ほど深くはない』には以前の『イナフ・ロープ』、『日没の銃』、『死と税』に収録した詩を多く集め、1939年には『ここに眠る』という題で幾つかの新作と共に小説を再出版した。 戯曲家のエルマー・ライスとの共作で『密なハーモニー』を書いて、1924年12月にブロードウェイの舞台に掛けた。この劇は他所の町の予告で受けがよく、ニューヨーク市でも好意的に受け取られたが、24回の公演後に打ち切られた。しかし『隣の淑女』という題で地方巡業を行い成功した。 パーカーの最も人気のあった作品は、「ザ・ニューヨーカー」に「コンスタント・リーダー」という署名で掲載した辛辣な書評という形のものだった。A・A・ミルンの『プー横丁にたった家』に対する揶揄の一句である"Tonstant Weader Fwowed Up"は今も知られる。書評は1927年から1933年までときおり掲載され、広く読まれ、1970年には『コンスタント・リーダー』という題のもとに出版された。 雑誌「ザ・ブックマン」に掲載され良く知られた短編『大柄なブロンド美人』は、1929年の最優秀短編としてオー・ヘンリー賞を受賞した。パーカーの短編は機知に富む事も多いが、贅肉がなくて辛辣であり、漫画よりもほろ苦いものだった。 パーカーは1928年に夫と離婚し、多くの情事があった。その愛人には記者から戯曲家になったチャールズ・マッカーサーや、出版者のスワード・コリンズがいた。マッカーサーとの間では妊娠したことがあり、「私としたことが、卵を全て1人のろくでなしに植え付けるなんて」と発言したと言われている。パーカーは堕胎し、鬱になって、自殺を初めて試みるまでになった。 パーカーが政治的に目覚め活動的になったのはこの期間の終わり頃だった。1927年にあったサッコとバンゼッティの処刑延期で、その後終生続く活動が始まった。パーカーはボストンに行ってその手続きに抗議した。彼女とラウンド・テーブル仲間のルース・ヘイルが逮捕され、パーカーは「彷徨し、ぶらついていた」罪で有罪となり、罰金5ドルを科された。
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