アニメ誌でのデビュー
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「ゆうきまさみ」の記事における「アニメ誌でのデビュー」の解説
まんが画廊でみのり書房がパロディ漫画を描ける人物を捜しているとの情報を得たゆうきは、同社を訪れてアイデアを見せ、OKが出たため漫画を執筆して持ち込む。『機動戦士ガンダム』のパロディ作品「ざ・ライバル」が『月刊OUT』1980年(昭和55年)4月号に掲載されて漫画家としてデビューする。ただし4ページの原稿のうち掲載されたのは1ページ目と4ページ目だけであった。その後も同誌でコンスタントにアニパロ(アニメのパロディ)読切の発表を続け、1980年12月号から開始した「ど貴族物語」が初の連載作品となる。当初はプロの漫画家になるつもりはなく、サラリーマンを本業として続けながらの活動であった。 活動の場をラポートの『アニメック』やOUTの増刊として始まった『アニパロコミックス』と増やし、新谷かおるの元でのアシスタントを行うと漫画活動の幅を広げるが、漫画によって本業が疎かになっていく。そして勤務年数が退職金が出る年数に届き退職しても当面の生活には困らなくなったこともあり、勤務態度を注意されたことを機として6年勤めた会社を1982年(昭和57年)に退職。同年には『アニメック』でアニパロではないオリジナル作品「マジカル ルシィ」を、翌年には『アニパロコミックス』と『月刊OUT』を跨ぐ形で古事記のヤマトタケルノミコト説話を漫画化した「ヤマトタケルの冒険」の連載をそれぞれ始める。 1982年ごろに出渕裕と知り合ったゆうきは意気投合して「企画ごっこ」のノートを見せ、これを気に入った出渕は構成として火浦功を加え『機動警察パトレイバー』として実際にアニメ化することを目指す。制作プロダクションへと企画を持ち込むが受け入れられず頓挫し、多忙となった火浦は企画から撤退する。 1983年(昭和58年)の『時をかける少女』の公開により、ゆうきの周りでは原田知世ブームが起こる。出渕裕・火浦功・美樹本晴彦・かがみあきら・とり・みき・河森正治・米田裕といった面々が原田について熱く語る日々を過ごし、エッセイ漫画などの形で仕事としても昇華していた。ゆうきも『OUT』で連載したパロディ作品「時をかける学園(ねらわれたしょうじょ)」などいくつかの漫画で原田を取り上げた他、原田に近づく機会が得られるかもしれないとの理由から角川書店のアニメ雑誌『月刊ニュータイプ』での連載を受諾している。1985年(昭和60年)の同誌創刊号から連載を開始したエッセイ漫画「ゆうきまさみのはてしない物語」は四半世紀以上を経た2016年現在においても続いており、同誌最長の長寿連載となっている。
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