アイルランド小作農保護強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「アイルランド小作農保護強化」の解説
農業不振でアイルランドでは地主による小作人強制立ち退きが増加していた。アイルランド小作人たちは団結して「土地連盟(英語版)」を結成し、「ざる法」状態のアイルランド土地法の改正を求める運動を展開した。 グラッドストンもアイルランド土地法強化を決意し、地代未納を理由とする強制立ち退きであっても地主は小作人に補償しなければならないとする法案を議会に提出した。しかしディズレーリ率いる保守党が全力でこの法案に反対し、自由党内でもランズダウン侯爵らホイッグ派(アイルランド不在地主が多い)が造反した結果、法案は1880年8月の貴族院で否決された。 アイルランド小作農の反発は強まり、暴動が多発するようになった。またアイルランド小作人たちは一致団結して強制退去に備えるようになり(小作人が強制退去されると、みんなでその小作人を保護する一方、強制退去させた不在地主の代理人と新たな小作人を村八分にするなど)、地主が新たな小作人を見つけるのが難しくなる状態が現出した。これによって地主層にも一定の改革を許容する空気が生まれた。 グラッドストンは1881年の会期がはじまるとまず、改革前の地主層のガス抜きでアイルランド強圧法を提出した。チャールズ・スチュワート・パーネルらアイルランド土地連盟の議員の議事妨害を退けつつ、可決にこぎつけ、アイルランド小作人の反乱を抑えつけた。続いてアイルランドへの懐柔として新しいアイルランド土地法案を提出した。この法案はパーネルが主張していた「3F主義」(「公正な地代 (Fair Rent)」、「保有の安定 (Fixity of Tenure)」、「自由売買 (Free Sale)」)を盛り込んでおり、地代は地代法廷において定めるものとし、その地代を支払う限り地主は小作人を追いだしてはならず、また小作権は自由に売買することができるものとしていた。貴族院である程度の修正をされつつもなんとか法案を可決できた。 しかしパーネルらは、改革の不十分さを批判し、闘争を放棄しないようアイルランド人同胞に呼びかけた。結局グラッドストンは先の強圧法を使ってパーネルらアイルランド議員を政府転覆容疑で逮捕してキルメイナム刑務所へ投獄した。この逮捕により、アイルランド民族主義者による反英テロが激化し、アイルランドが半ば無政府状態に陥った。グラッドストンも獄中のパーネルもこれを懸念したため、二人は密約を結び、パーネルが新土地法の実施を邪魔しない代わりにグラッドストンは地代滞納小作人を国庫で救済する制度の創設を目指すこととなった。この密約でパーネルは釈放され、彼が再びアイルランド運動の頂点に立つことで過激なテロ活動を抑え込みを図った。 しかしこの密約には批判も多く、パーネルは過激なアイルランド民族運動家たちから裏切り者扱いされ、グラッドストンは女王や反動派の批判を受けた。アイルランド担当大臣ウィリアム・エドワード・フォースター(英語版)も不服として辞職し、グラッドストンの甥にあたるフレデリック・キャヴェンディッシュ卿が後任のアイルランド担当大臣に就任したが、彼は就任からわずか5日後の1882年5月5日にアイルランド民族主義者によって暗殺された。 これによってグラッドストンは一時的に強圧路線に戻ることとなったが、それでも彼のアイルランドに対する本質的な考えは変わらなかった。キャヴェンディッシュ夫人に対して「貴女の夫の死を無駄にしません」と語って、いよいよアイルランド自治を見据えるようになった。そして第三次内閣におけるアイルランド自治法案提出へ繋がっていくことになる。
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