夫の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:19 UTC 版)
「マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ」の記事における「夫の死」の解説
1789年に起きたフランス革命後、夫アントワーヌと、父ジャック・ポールズの就いていた徴税請負人に対する民衆の視線は厳しくなっていった。1791年に徴税請負人の職は廃止され、さらに、徴税請負人は市民から集めた金を着服していたという噂が流れるようになった。1793年11月28日、アントワーヌとジャック・ポールズは自らの無罪を証明するために出頭した。 マリー・アンヌは夫と父のもとに出向いて差し入れをするとともに、2人の助命を求めて走り回ったが、成果を得ることはできなかった。日に日にやつれてゆくマリー・アンヌに宛てて、妻の健康と将来を気遣うアントワーヌからの手紙が残されている。 その後、マリー・アンヌが訴求官であるアンドレ・デュパン(フランス語版)に願い出れば、夫アントワーヌだけは助けることができるという話が持ち上がった。しかしマリー・アンヌはデュパンに対し、「ラヴォアジエの訴訟を同僚の人達と別個に扱うような事は、決してラヴォアジエの心よくするところではありません。ラヴォアジエはそれを不名誉に思うでしょう」と述べたため、デュパンは激怒して、この話は無くなったとされている。ただし、このエピソードについては事実かどうか疑問視する意見もある。 1794年5月8日、アントワーヌとジャック・ポールズは革命裁判所に出頭させられ、即日死刑判決を受け、同日、死刑執行された。
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