『新宝島』の成功から紙芝居作家へ
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「酒井七馬」の記事における「『新宝島』の成功から紙芝居作家へ」の解説
終戦直後、アメリカ軍の兵士の似顔絵を描きで生計を立てていた酒井は、入手したアメリカンコミックに強く影響を受ける。1946年には、『ハロー・マンガ』、『漫画民主ニッポン』などの漫画雑誌も創刊され、酒井はこれらの雑誌の執筆陣の中心となり編集も担当した。同年には、酒井らが中心となって関西マンガマンクラブを結成し、同クラブで漫画雑誌「まんがマン」を創刊して会員を募集した。 関西マンガマンクラブの会員の中には当時新人であった漫画家手塚治虫がおり、1947年には酒井と手塚が共作した初の長編漫画本『新宝島』が大ヒット作品となった。『新宝島』の「映画的表現」は、後にこの作品と手塚を神話的なものとするが、酒井の評伝を執筆した中野晴行は元アニメーターであった酒井の力も大きかったのではないかと推測している。なお最初に出版された『新宝島』の奥付の著者表記には酒井の名前だけがあり、手塚の名前がなかったことに手塚が腹を立て以後両者は絶縁したかのような言及が多くされているが、酒井、手塚両人を含む漫画家の1948年に撮影された集合写真が発見されている。また、手塚自身も、その後も酒井の出席する関西漫画家の集会には毎年一度必ず出席していたと言及しており、この二人は特に仲違いをしたわけではない。ただし「新宝島」以後は、手塚との合作がないことは事実である。『新宝島』以後の酒井は漫画家・紙芝居作家として関西で旺盛な活動を継続していたが、後に東京に移って関西の漫画界の情報が乏しくなった手塚の側から見れば「消えた」漫画家となり、そのため一般の読者からも長く「幻の漫画家」と見なされる結果となった。 『新宝島』の大ヒットにより生じた赤本漫画の出版ブームに乗って、酒井も1947年に1冊、1948年に10冊、1949年に7冊の描き下ろしの赤本の漫画単行本を出版した。赤本出版ブームの終息した1950年に酒井は紙芝居作家に転身し、左久良五郎の名で数多くの作品を発表した。1954年から1959年にかけて大阪日日新聞で絵物語『鞍馬小天狗』、『ボクは辯慶』を連載したための中断期を挟んで、1964年まで紙芝居を描き続けた。その間、『鞍馬小天狗』(1953年)、『少年ローン・レンジャー』(1962年)などのヒット作を生んでいる。また松竹新喜劇の中座の芝居看板を描くこともあった。
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