『新宝島』の成功から紙芝居作家へとは? わかりやすく解説

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『新宝島』の成功から紙芝居作家へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:21 UTC 版)

酒井七馬」の記事における「『新宝島』の成功から紙芝居作家へ」の解説

終戦直後アメリカ軍兵士似顔絵描き生計立てていた酒井は、入手したアメリカンコミック強く影響を受ける。1946年には、『ハロー・マンガ』、『漫画民主ニッポン』などの漫画雑誌創刊され酒井はこれらの雑誌執筆陣中心となり編集担当した同年には、酒井らが中心となって関西マンガマンクラブを結成し、同クラブ漫画雑誌「まんがマン」を創刊して会員募集した関西マンガマンクラブの会員中には当時新人であった漫画家手塚治虫がおり、1947年には酒井手塚共作した初の長編漫画本新宝島』が大ヒット作品となった。『新宝島』の「映画的表現」は、後にこの作品手塚神話的なものとするが、酒井評伝執筆した中野晴行は元アニメーターであった酒井の力も大きかったではないか推測している。なお最初に出版された『新宝島』の奥付著者表記には酒井の名前だけがあり、手塚の名前がなかったことに手塚腹を立て以後両者絶縁したのような言及多くされているが、酒井手塚両人を含む漫画家1948年撮影され集合写真発見されている。また、手塚自身も、その後酒井出席する関西漫画家集会には毎年一度必ず出席していたと言及しており、この二人は特に仲違いをしたわけではない。ただし「新宝島以後は、手塚との合作がないことは事実である。『新宝島以後酒井漫画家紙芝居作家として関西旺盛な活動継続していたが、後に東京移って関西漫画界情報乏しくなった手塚側から見れば消えた漫画家となり、そのため一般読者からも長く「幻の漫画家」と見なされる結果となった。 『新宝島』の大ヒットにより生じた赤本漫画出版ブーム乗って酒井1947年に1冊、1948年10冊、1949年に7冊の描き下ろし赤本漫画単行本出版した赤本出版ブームの終息した1950年酒井紙芝居作家転身し左久良五郎の名で数多く作品発表した1954年から1959年にかけて大阪日日新聞絵物語鞍馬小天狗』、『ボク辯慶』を連載したための中断期を挟んで1964年まで紙芝居描き続けたその間、『鞍馬小天狗』(1953年)、『少年ローン・レンジャー』(1962年)などのヒット作生んでいる。また松竹新喜劇中座芝居看板を描くこともあった。

※この「『新宝島』の成功から紙芝居作家へ」の解説は、「酒井七馬」の解説の一部です。
「『新宝島』の成功から紙芝居作家へ」を含む「酒井七馬」の記事については、「酒井七馬」の概要を参照ください。

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