『小チベットのイエス』理論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 09:25 UTC 版)
「仏教とキリスト教」の記事における「『小チベットのイエス』理論」の解説
イエスが公に伝道を開始する前の、消息不明となっている期間に、彼は小チベットを訪れていたという仮説を何人かの著述家が調査している。 ロシアの戦争特派員だったニコラス・ノートヴィッチ(英語版)は、1887年にインドとチベットを訪れた。ラダックのヘミスにあるチベット仏教の寺院で彼は『聖イッサ伝 人の子の最も秀れしもの』を学んだと主張した。彼の話は『聖イッサ伝』の翻訳とともに1894年に『La vie inconnue de Jesus Christ』として出版された。本書は後に英語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語に翻訳された。『聖イッサ伝 人の子の最も秀れしもの』は噂によると東方で聖イッサとして知られていてノトヴィッチがイエスだと考えた人物の旅を詳述している。最初にノートヴィッチを疑って後に、ラーマクリシュナの弟子スワミ・アベダナンダはチベットへ旅し、彼の主張を調査して、文書の翻訳を助け、彼の考えを擁護するようになった。ノートヴィッチの著作は即座に論争を引き起こした。ドイツの東洋学者マックス・ミュラーがノートヴィッチが訪れたと主張するヘミスの寺院と文通し、アーチボールド・ダグラスは実際にその寺院を訪れた。二人ともノートヴィッチが(ましてやイエスが)そこを訪れたという証拠を見つけられなかったため、彼らはノートヴィッチの主張を否定した。ヘミスの共同体の首領はノートヴィッチが嘘つきだと非難する書類に署名した。 こういったつじつまの合わないことがあるにもかかわらず、ニューエイジやスピリチュアリズムの著述家はノートヴィッチの主張を取り入れて自分の著作に組み込んだ。例えば、神智学系のカルト普遍勝利教会(英語版)の教祖エリザベス・クレア・プロフェット(英語版)は、終生『聖イッサ伝』が本物と信じ、『The Lost Years of Jesus: Documentary Evidence of Jesus' 17-Year Journey to the East』で、仏教の文書がイエスがインド、ネパール、ラダック、チベットを旅した証拠を提供すると力説した。『聖イッサ伝』12章には女性を宇宙の母と讃え、男性たちに女性を尊重するよう促す文章があり、女性蔑視的なキリスト教に不満を抱いていたエリザベス・クレア・プロフェットにとって、キリスト教の神髄を示すものだった。 バート・D・エアマン(2011年)は、今日の学者は全員、ノートヴィッチの著作が悪ふざけだったと考えていると述べている。
※この「『小チベットのイエス』理論」の解説は、「仏教とキリスト教」の解説の一部です。
「『小チベットのイエス』理論」を含む「仏教とキリスト教」の記事については、「仏教とキリスト教」の概要を参照ください。
- 『小チベットのイエス』理論のページへのリンク