「船橋鉄道」設立
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免許を受けたのは1913年(大正2年)4月10日で、1年後の1914年(大正3年)4月9日までに工事施工認可申請書を提出することとなった。しかし1914年(大正3年)1月27日、発起人のうち5人(岡本文平含む)が藤田栄一の部理代人委任契約の解除を求めて届けを提出、同年4月27日には残りの発起人のうち4人が続いて加わった。それに対し藤田栄一は同年5月20日に船橋町の創立事務所で発起人会を招集し、21人の脱退者と16人の除名者(岡田文平含む)が議決された。発起人数は最盛期の半分以下である25名にまで減少した。また排斥要求の対象となった創立委員長の藤田栄一は、この騒動の責任をとって辞任、船橋商業銀行頭取の岡田耕平が代わって就任した。 1914年3月25日、認可申請の期限切れが迫ったために急遽「工事施工認可申請期日延期願」を提出。期限を同年7月9日まで延長することを願い出た。その理由は、当初の予定線に対して更なる比較線を発見、また国鉄常磐線柏駅において県営野田線と直接連絡を図るために最善の方法を議論した結果複雑となり期間を要する、というものだった。同年5月27日、一日も早く創立総会を開くことでやむなく事情に迫ったとして延期の認可を懇請した。しかし認められなかったため同年6月4日に創立総会を強行。創立委員長の岡田耕平が社長に就任、その他取締役や監査役が決定した。 結局工事施工認可申請期限の延長が認められ、1914年6月24日に提出された。その後工事が難航しそうな箇所が多いことを理由に柏駅付近で国鉄常磐線を乗り越える跨線橋の建設が取り止められ、県営野田線と接続せずに柏駅の南側に駅を建設することとなった。途中の経由地も印旛郡白井村と千葉郡豊富村となり路線も14マイル64チェーンに改めることとなった。これによる工事方法書の修正申請は同年11月16日に行われた。同年12月22日に認可され、工事着手が決定した。 1914年12月27日、船橋町の大神宮客殿で第一回株主総会が開かれた。既に5月20日に半数以上の発起人が脱退または除名されているにも拘らず会社の設立を急いだため、架空の株式の払い込みをし、架空の資産を作り出す必要があった。この株主総会ではかなり曖昧な点がある。いろいろと工作がなされるが、結果として船橋鉄道の計画が困難な方向へと進んでゆくこととなる。ちなみに発起人脱退の理由は未だに分かっていないが、この株主総会で報告された創立総会の報告書や沿線の在住者が多いことから経路や停車場の位置などで揉めた可能性が高いとされている。
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