1991年のル・マン24時間レース 決勝

1991年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 05:27 UTC 版)

決勝

ポルシェ・962Cの大量エントリーで何とか格好がついたものの、ジャガー・XJR-14ヨースト・レーシングの1台ずつが出走を回避し、出走は38台と第二次世界大戦後最少台数で争われることとなった。16時ちょうど、スタートした。新規格車両で決勝に出たのはプジョー・905の5号車・6号車の2台と、スパイス・エンジニアリングなど到底優勝争いに加われない小コンストラクターの車両8台の全10台に留まった[2]

プジョー・905は当初から耐久性のなさを自覚しており、次年のデータ収集のために飛ばせるところまで飛ばして故障したらリタイヤする作戦であり、その通り序盤をリードしたものの結局5号車が1時間半でエンジンを壊し(ピット作業での給油中に炎上するというおまけつきであった)、6号車も6時間でトランスミッションを壊してリタイアした[2]

その後のレースはメルセデス・ベンツ3台が先行し、それをジャガー3台とマツダ2台が追う展開となった。メルセデス・ベンツは燃費が少しばかり悪くなっても前半で大きくリードし追撃を諦めさせる作戦、ジャガーは燃費でペースが上がらないがペースを保って他が潰れるのを待つ作戦を採った。これに対し車両重量の軽いマツダはドライバーの努力もあって良好な燃費のままでかなり高いペースを保つことができ、1時間目で11位、2時間目で9位、3時間目で10位、4時間目で7位と漸次順位を上げ、この頃やっとマツダの戦闘力に気がついたジャガーとメルセデス・ベンツは情報収集を始めた。6時間目には、メルセデス・ベンツ3台に次ぐ4位に上がった。メルセデス・ベンツは10時間目にパーマーの32号車が前部を破損させてトップから10周以上遅れた[1]

マツダのコンサルタント及びチームマネージャーだったジャッキー・イクスが「ドイツ人は下位とのマージンを必要以上に確保したがるものだから、マツダがペースアップをすればメルセデス・ベンツはそれ以上のペースアップをして、車両に過負荷をかけるであろう」と読み、ペースアップを指示した。彼はベルギー人であるが、かつてポルシェ・ワークスチームに在籍しており、ル・マンでの勝ち方[注釈 1]とともにドイツ人というものを知っていたのである。これに関してマツダの監督だった大橋孝至は後に「あのままじゃダメなんで、とにかく仕掛けろ、と(55号車のドライバー)3人に言ったんだ」「ベンツの2台は楽勝だったんだよ。ウチがペースを上げても我慢していればよかったのに。ああいうのがドイツ的完全主義って言うんじゃないの?」と発言している。12時間までに55号車がジャガー2台を追い抜いて3位に浮上した[1]。ジャガーは反応したが燃費の問題でついて行けなかった。メルセデス・ベンツはこれを見てマツダ以上にペースを上げた。

13時間を過ぎる辺りで2位を走行していたメルセデス・ベンツ31号車がトランスミッションのトラブルでピットイン、20分を費やし5位に後退した。これによりマツダ55号車は2位に浮上した[2]

21時間目、トップを走るメルセデス・ベンツ1号車がオーバーヒートとトランスミッショントラブルでピットイン、マツダ55号車はトップに立った。1号車は30分後にピットアウトしたがヘッドガスケットが吹き抜けており1周だけして再びピットイン、そのままリタイアした。31号車はこの時点でトップからは5周差があり、自力でトップに戻るのは不可能であった。メルセデス・ベンツの脱落後はジャガーが2・3・4番手を固め、マツダに続いた[2][1]

23時間目、マツダ陣営内では最後3台を並べて走らせゴールする(いわゆる「デイトナ・フィニッシュ」)提案がされたが、大橋孝至は拒否した。ジャッキー・イクスが「これまで何度も優勝しているならそれもいいだろう。6位くらいの成績で満足するならそれもいい。しかし、優勝を狙うならつまらないことをするな」と皆に説明した。

大橋孝至は緊張感を保たせ、想定外の危険を避けるため最後までペースを下げさせなかった。終了20分前のピットインでも、それまでに連続1時間半近く走っていたジョニー・ハーバートを交替させなかった。この時のタイヤ交換はメカニックの手が震えて普段よりわずかに時間がかかったが、他には特に問題なく終了した。マツダ関係者にとっては時間の経過が恐ろしく遅く感じられ、マツダにタイヤを供給したダンロップのモータースポーツ部長は自分の腕時計が故障したと思ったという[2]


  1. ^ 3年連続1回、2年連続1回を含む計6回の優勝を誇る。詳細はル・マン24時間歴代勝者を参照。
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br 『Gr.Cとル・マン』pp.78-79「1991」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.247-295「そして静かなる勝利」。
  3. ^ 『世界最高のレーシングカーをつくる』林義正著 光文社新書
  4. ^ 『オートスポーツ』1991年8月15日号 三栄書房
  5. ^ 『Gr.Cとル・マン』pp.100-101。
  6. ^ a b c 『Gr.Cとル・マン』pp.102-103。
  7. ^ a b c d 『Gr.Cとル・マン』pp.104-105。
  8. ^ ルマン優勝車「マツダ 787B」、20年ぶりにルマン・サルトサーキットを走行 - マツダ ニュースリリース2011年6月16日


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