1991年のル・マン24時間レース 1991年のル・マン24時間レースの概要

1991年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 05:02 UTC 版)

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1991年のル・マン24時間レース
前年: 1990 翌年: 1992
1991年のコース

概要

スポーツカー世界選手権(SWC)は新たに「排気量3,500ccまでの自然吸気エンジン、マシンの最低重量750kg、燃費制限なし」の新グループC規格でスタートし、ル・マン24時間レースはこの新カテゴリーC1と、従前のグループCカテゴリーC2との混走となった[1]。ただ資金や時間が掛かるためと、他のSWC戦との走行距離の違いによる信頼性への不安から、新カテゴリーでのル・マン24時間レースへの参加車両は少なかった。

従前のグループC車両での参戦は1991年までとされ、最低重量が原則1,000kgという重いハンディキャップが課せられ、全く戦闘力を奪われた。これほど厳しくされたのは、フォーミュラ1においてノンターボエンジンの排気量上限が1987年から3,000ccから3,500ccに上げられるなど、ターボエンジン搭載車両に不利になるレギュレーション変更のをものともせず、1988年のF1世界選手権ホンダが1,500ccターボエンジンの性能を上げて圧倒的な勝利を挙げたことと、前年のル・マンにて日産が莫大な物量作戦で性能を上げたことを重ね合わせたからである。ただマツダは前年のレースで惨敗して周囲に警戒されておらず、その最低重量はSWCでは830kg、ル・マン24時間レースでは880kgと決められた[2]

トヨタ自動車は1992年の途中からSWCに3,500ccエンジンを投入する予定になっていたこと、また世界ラリー選手権(WRC)でタイトルが取れそうになっていたことで、予算を取られてル・マン24時間レース用車両に手が回らず不参加を決めた。

日産自動車は社内の足の引っ張り合いで、ル・マン24時間レースの参加条件として全戦参戦が義務付けられていたSWCへの不参加を決めた。ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパのメンバーをクラージュ・コンペティションに移し、クラージュ・コンペティション名義でSWCに参戦し参加資格を得る方法も検討されたがこれも実現しなかった。その後も追浜の中央研究所並びにニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)で重量1,000kgの24時間レース用車日産・R91CPの開発は続けられた。また日産のアメリカにおけるレース子会社であるNPTI日産・R90CKデイトナ24時間レースに参戦。ここでR90CKは桁違いの速さを見せ、他車のパーツを踏みつける不運なアクシデントに見舞われたものの、17周遅れの2位に入賞。ヨーロッパから遠征して来ていた他社は強い警戒感を抱いたとの見方もある[2]

結果的にトヨタと日産が不参加となったため、日本から参戦したのはマツダのみとなった。マツダは1991年1月に起きたイラククウェート侵攻でスケジュールが狂ったが、大きな問題にはならなかった[2]トム・ウォーキンショーの支援を仰いで2月にル・マン24時間レースでの最低重量が他のSWCイベントと同じ830kgに軽減された[1][2]4月4日マツダ・787Bが完成、ポール・リカール・サーキットで4,500kmに及ぶ耐久走行試験をトラブルなしでこなし、カーボンブレーキの採用を決定した[2]。SWCの善戦から最低重量を880kgに戻す議論が出て来てもおかしくなくなった頃に、下記のようにポルシェが安全面での懸念を示して950kgに軽減されたため、ここでマツダの最低重量を増やすわけにも行かず、マツダの最低重量を880kgに戻す話は立ち消えになった[2]

1980年代に耐久レースを席巻したポルシェ・962Cは、この時代には各プライベートチームで独自の改良が加えられ、原型を保っている車両の方が少なかった。新たに3,250ccエンジンをヨースト・レーシングブルン・モータースポーツに供給したたものの、最低車重1,000kgでは安全性を保証できないため「できれば1991年のSWC出場を見合わせるように」と通達を出した[1][2]。実際に市販されているレーシングカーのうち多数を占めるポルシェが撤退してしまえばレースが成立しないおそれがあり、その後最低重量がル・マンを除くSWCシリーズでは950kgに軽減された[2]

3月18日にSWCへの参加台数がわずかに18台であることが判明し、出走台数50台確保を前提に興行権を渡してル・マン24時間レースをSWCに復帰させたフランス西部自動車クラブ(ACO)は激怒した。これに対し国際自動車スポーツ連盟(FISA、現国際自動車連盟)が「約束したのは40台で、最終締め切りの5月18日までに40台確保する」と回答したためACOはますます態度を硬化させた[2]。ル・マン24時間レースへの参戦を認める旨のファックスが3月27日日産自動車宛に送られたが、しかしル・マン24時間レースの参戦権を得るため費用を掛けてSWCにフル参戦して来たメーカーがこれに猛反発し、FISAは日産自動車の参戦を認める決定を覆した[2]。とは言え一方的に日産を追放したわけではなく、FISAは代わりにSWCのエントリー締め切りを開幕戦鈴鹿の予選前日まで引き延ばす配慮を示す。予選を走るだけで構わないと[3]。しかし結局日産は鈴鹿に姿を現さず、その時点で1991年ル・マンの欠場が決まった。欧州のジャーナリストにとっては日産のこの行動は理解不能だったと言う。 FISAはメルセデス・ベンツジャガーにシリーズ参戦している新規格車(カテゴリー1)をル・マンでもエントリーするよう命じた。この年のル・マンのエントリーはわずかに46台(Tカーを除く)。うちチーム・バークレー・ロンドンのスパイスSE90Cは姿を現さず、クラージュ・コンペティションのクーガーC24Sが最低車重7㎏不足し車検落ちした[4]。予選出走は44台に。

狭くて使い勝手が悪いだけでなく、危険でもありチームとドライバーに不評だったピットは「世界最新鋭」とも言えるような近代設備に生まれ変わった。ピットロードは従前の2倍に拡張され、ピットガレージは奥行き10mを優に越える程広く、その2階は広いラウンジ、3階は巨大なプレスルームになった。また先着順で場所が決まっていたため、ドライバーから少しでも見やすい場所を巡ってトラブルが多かったサインを出すシグナル・ステーションも廃止され、他のサーキットと同様にピットからサインを出すようになった[2]

これらの改良に対して「昔の情緒がなくなった」という者も少なくなくかった。しかし特に昔のル・マン24時間レースを知る者にとってショックだったのはピットの新装ではなく、ユーノディエールの中程にあってファン・マヌエル・ファンジオスターリング・モスも訪れサインを残していた「レストラン24時間」が華僑に買収され、中華料理店になってしまったことだった[2]

ポスターは自国のプジョー・905を差し置いてジャガー・XJR14が使われた[1]

カテゴリー1

排気量3,500ccまでの自然吸気エンジン、マシンの最低重量750kgと定められた新グループC規格である。燃費制限はない。一言で言えばフルカウル化されたフォーミュラ1で、挙動がクイックでシャープなため絶対速度だけなら断然有利、SWCの緒戦となった鈴鹿ではプジョー・905ジャガー・XJR-14メルセデス・ベンツ・C11を圧倒していた。しかしこれは360kmのスプリントレースの話であり、ドライバーにかかるストレスが大きく、自動車の耐久性能も低かった[1]

この規格に一番積極的だったのはプジョーで、SA35型80度V型10気筒エンジンを新規に開発し、コンパクトな運転席と優れた空力が特徴のプジョー・905に搭載した[5]

ジャガーF1V型8気筒コスワースHB型エンジンをロス・ブラウンが設計したジャガー・XJR-14に搭載し3号車、4号車をおつきあいでエントリーした[6]。しかしトム・ウォーキンショーはレース前に「夜まで走らせる気はない。決勝では最初のピット・ストップのあとガレージに引っ込める」と明言した[2]

メルセデス・ベンツ180度V型12気筒のM291型エンジンを開発し、メルセデス・ベンツ・C291に搭載し2号車でエントリーはしたが、初日にお披露目で2周走らせただけだった[2][7]

新規格への優遇措置として予選タイムに関わらずスターティンググリッドは5列目までカテゴリー1のみとされた。

カテゴリー2

去年までのグループC規格である。

ジャガーは7.4リットルエンジン搭載のXJR-12を4台持ち込んだ[2]

メルセデス・ベンツは5リットルターボエンジン搭載のメルセデス・ベンツ・C11を3台持ち込んだ[2]。前年の欠場によりシケインの入ったコースは初めてであった。

6列目以降のグリッドからの決勝スタートとされた。

予選

誰も新規格車両が24時間を走り切れると思っておらず、ジャガーメルセデス・ベンツも旧規格車両を走らせるだけしかドライバーを登録していなかった。

6月19日の18時に公式予選が始まった[2]

トップタイム争いはジャガーデレック・ワーウィックXJR-14で先行した[1][6]が、メルセデス・ベンツC11の1号車に予選仕様のエンジンを搭載し土壇場に逆転した[1]

ジャガーXJR-12のエンジンを7.4リットルに拡大したため燃費データの収集に務めた。新規格車両XJR-14は1日目のみ走行させ予選通過はしたが、そこで撤収した[2][6]

マツダは787Bが55号車、18号車。787が56号車。初日にタイムアタックをする予定だったが雨で中止になり、その後はカーボンブレーキや燃費データの収集など決勝に備えたため、前年日産・R90CKが出したポールポジションを上回らないタイムで終わった。マツダから来たエンジン担当者は55号車の燃費を見て目を見張った。グループCカーに乗り馴れないベルトラン・ガショーフォルカー・ヴァイドラーが乗り方を教えてぐんぐん燃費が向上していたのである[2]

40台が予選を通過した。




  1. ^ 3年連続1回、2年連続1回を含む計6回の優勝を誇る。詳細はル・マン24時間歴代勝者を参照。
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br 『Gr.Cとル・マン』pp.78-79「1991」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.247-295「そして静かなる勝利」。
  3. ^ 『世界最高のレーシングカーをつくる』林義正著 光文社新書
  4. ^ 『オートスポーツ』1991年8月15日号 三栄書房
  5. ^ 『Gr.Cとル・マン』pp.100-101。
  6. ^ a b c 『Gr.Cとル・マン』pp.102-103。
  7. ^ a b c d 『Gr.Cとル・マン』pp.104-105。
  8. ^ ルマン優勝車「マツダ 787B」、20年ぶりにルマン・サルトサーキットを走行 - マツダ ニュースリリース2011年6月16日


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