黒野義文
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黒野 義文(くろの よしぶみ、生年不詳 - 1917年6月18日)は日本の明治時代から大正時代にかけての教育者[1]。東京外国語学校でロシア語を教えた後、ロシアに渡り、ペテルブルク大学で長く日本語を教えた[1][2]。
- ^ a b “黒野義文”. 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』. コトバンク. 2014年7月21日閲覧。
- ^ a b 小林潔「黒野義文『露和通俗会話篇』について」『人文研究』第176巻、神奈川大学人文学会、2012年1月1日、59-93頁。
- ^ 関榮次「遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督」(PHP研究所)P132
- ^ 関榮次「遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督」(PHP研究所)P133
- ^ 平岡雅英 著『日露交渉史話』,400頁,筑摩書房,1944.国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『日本帝国文部省年報』第12巻,566頁(明治17年),文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大庭柯公 著『露国及露人研究』,219頁,柯公全集刊行会,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『窓』(8),ペテルブルグの日本人教師黒野義文 / 桜井良平/p31~34,ナウカ,1974-03. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 長沼言語文化研究所 編『日本語教育研究』(9),ロシアの日本語教科書 / 桜井良平/p50~52 ,長沼言語文化研究所,1974-06. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 関榮次「遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督」(PHP研究所)P143
- ^ JICインフォメーション第156号(2009年4月10日発行)『人的交流を通して見た日本とロシア』東京外国語大学教授・渡邉雅司
- ^ 西村庚「黒野義文に関する聞き書きその他」『文献』
- ^ 関榮次「遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督」(PHP研究所)P132~138
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