飯野城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:08 UTC 版)
概要
比高50メートルの河岸段丘上にあり、城の南方は川内川に面して、また東方と西方もその支流が流れいずれも険崖になっており、北方は押建山が壁の役割を果たす要害の城。
本丸・二の丸・三の丸に加え、見張り台・桝形・弓場と呼ばれる郭が存在した。また、10メートルほどであるが石垣が遺構として残されている。
歴史
永暦元年(1160年)に日下部重貞が真幸院司に就任し、真幸院守護の目的で築き居城としたが、その日下部氏が没落すると、康永4年(1345年)に北原兼幸が真幸院司に就任し居城とした。
永禄7年(1564年)、その北原氏も滅ぶと今度は島津氏の所有となり、島津貴久の次男・島津義弘の居城となった。
天正15年(1587年)に義弘の嫡男・島津久保の居城となるが、久保は文禄の役に参加中の文禄2年(1593年)に病死する。
関連項目
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