陳太宗 陳太宗の概要

陳太宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 04:15 UTC 版)

陳太宗
陳朝
初代皇帝
陳太宗元孝皇帝画像
国号 大越
王朝 陳朝
在位期間 1226年1月11日 - 1258年3月30日
都城 昇龍(現ハノイ
姓・諱 陳煚
尊号 統天御極隆功厚徳顕功佑順神文聖武元孝皇帝 →
顕堯聖寿太上皇帝
諡号 統天御極隆功茂徳顕和佑順神文聖武元孝皇帝
廟号 太宗
生年 建嘉8年6月16日[1]
1218年7月10日
没年 宝符5年4月1日[2]
1277年5月5日
陳承
黎氏
后妃 昭聖皇后、順天皇后
陵墓 昭陵
元号 建中 : 1226年 - 1232年
天応政平 : 1232年 - 1251年
元豊 : 1251年 - 1258年

経歴

祖先は福建、もしくは桂州からの移住民である[3][4][5][6][7][8]。建嘉8年(1218年)、太宗は陳承の次男として生まれる。母は黎氏。有道2年10月(1225年11月頃)に宮中に入内[9]李朝の女帝の昭皇に見初められ、遊び友達となると、まもなく結婚した。同年12月12日(1226年1月11日)、陳守度や馮佐周の工作により、昭皇から禅譲され、わずか8歳で帝位に就くこととなった[10]。しかし、皇帝が幼年であることから、実際の政務は陳守度が執った。建中2年1月(1226年2月頃)、昭皇を后として立て、昭聖皇后と改めた[11]

建中5年(1229年)、に使者を派遣し、安南国王に封ぜられる[12]。成人すると親政を開始し、科挙による有能な人材登用や諸制度の整備など、陳朝の土台を固める事に務めた。元豊7年(1257年)11月には兀良合台の率いるモンゴル軍が侵攻し、12月には紅河北岸の「平厲源」の地で蒙越両軍が衝突したが、太宗は自ら出陣した[13]。しかし、モンゴル軍が紅河を渡河すると、国都タンロン付近の瀘江口、さらに天幕口に撤退した。一時タンロンを占領されたが、間もなくモンゴル軍が撤退したため、ベトナム軍は追撃してこれを打ち破った[14]

元豊8年(1258年)、長男の聖宗に譲位して太上皇となったが、引続き政治を執り行った[15]。同年、使者をモンゴルに派遣し、国交を開いた[16]。このときのベトナム君主は、日煚(太宗)の長男の「光昺」と記録されているが、光昺は太宗の別名であり[15]、モンゴルと戦った君主とは別人が位に就いた形をとり、国交を開いたとされる[16]

モンゴルでクビライが即位すると、翌年の紹隆4年(1261年)に使者を派遣。三年一貢を申し入れ、元朝より「光昺」として安南国王に封ぜられた[17]

治政の傍ら、禅を修行し、譲位後に修行に打ち込み、禅に関する著作も著した。

著書

  • 『禅宗旨南』
  • 『課虚』

  1. ^ 『大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 建嘉8年6月16日
  2. ^ 『大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 宝符5年4月朔
  3. ^ 桃木至朗 著「『ベトナム史』の確立」、池端雪浦ほか 編『東南アジア古代国家の成立と展開』 2巻、岩波書店〈岩波講座 東南アジア史〉、2001年7月、171頁。ISBN 4000110624 
  4. ^ 世界大百科事典チャン朝』 - コトバンク
  5. ^ “Ham sắc, Tô Trung Từ tự hại mình”. Báo Mới英語版. (2013年2月21日). オリジナルの2017年3月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170312034131/https://www.baomoi.com/ham-sac-to-trung-tu-tu-hai-minh/c/10426418.epi 
  6. ^ Taylor, K. W.『A History of the Vietnamese』Cambridge University Press、2013年、120頁。ISBN 978-0-521-87586-8。"Tran Ly, Tran Canh's grandfather who had led the Tran family into court politics, was the grandson of an emigrant from Fujian."。 
  7. ^ Ngô Sĩ Liên(ベトナム語)『Đại Việt sử ký toàn thư』(Nội các quan bản)Social Science Publishing House、Hanoi、1993年、159頁。 
  8. ^ Lo, Jung-pang 著、Elleman, Bruce A. 編『China as a Sea Power, 1127-1368: A Preliminary Survey of the Maritime Expansion and Naval Exploits of the Chinese People During the Southern Song and Yuan Periods』NUS Press、Singapore、2012年、203頁。 
  9. ^ 『大越史記全書』本紀巻之四 李紀 昭皇 有道2年10月
  10. ^ 『大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 有道2年12月12日
  11. ^ 『大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 建中2年正月
  12. ^ 山本(1975年)、83ページ
  13. ^ 山本(1975年)、85ページ
  14. ^ 山本(1975年)、85-86ページ
  15. ^ a b 山本(1975年)、86ページ
  16. ^ a b 山本(1975年)、87ページ
  17. ^ 山本(1975年)、87-88ページ


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