野田城 (摂津国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 16:11 UTC 版)
城郭
野田城がどの程度の城郭であったのか現在も不明な点が多い。城跡は都市化され、築城当時とは大きく地形が変化しているからである。ただ少ない資料の中からおおまかな概要は把握されている。この地域は平安時代以前には「難波八十島」と呼ばれる島々が点在していたが、淀川の堆積土砂によって段々と島が陸続きになり、平安時代より今日に至るまで大きく変化してきた。野田城も当時は島のような場所に築城されていたと考えられている。
野田城は砦であったという指摘もあるが、『細川両家記』には、
野田、福島に猶似て堀をほり、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株、逆茂木引き、当所へ楯籠らるるなり — 『細川両家記』
とあることから、浦上村宗時代には砦のような施設であったが、三好三人衆時代には「紛れもない城郭であろう」と『幻の野田城を探る』では記しており、近隣にある大坂城のような近世城郭ではないものの戦国時代の城郭であったと思われている。
明治時代初めまでは、同地域に「野田村」が存在していた。この野田村は奥ノ町、東ノ町、城ノ内町、弓場町、堤町、北ノ町の6町から成り立っていた。明治時代初期の地図によると、この野田村周辺が他の地域と比べて若干高い場所にあり、地の利を活かし築城されたのではないかと思われている。また『幻の野田城を探る』によると、城郭は旧町名の城ノ内町、奥ノ町にあたるのではないかとしており、現在の地名では、石碑1や極楽寺付近が中心部、野田恵美須神社や春日神社が城郭の東側とされる。福島区野田3丁目の野田診療所の南東には馬洗池があったと言われており、この馬洗池が野田城と関係があるとなれば、この辺りが城郭の西側になると思われている。
福島城
野田城に関する資料も多くはないが、福島城の城郭について『幻の野田城を探る』では「ほとんど絶望的」としている。確認されている古文献のほとんどが「野田・福島」と併記され、当時両城は一体で運用されていたのではと思われている。ただし、両城を一つの城として考えると城域が広大になり過ぎ、そのように考えることには疑問が残る。両城の間には、農地や荒地があったと考えるのが実情に合っていると思われている。一方で、近隣には富松城のような二カ所一城の例があり、野田城、福島城もその例にならって築城されていたと考える立場もある。明治時代の地図によると上福島村、下福島村という村が存在しており、その周辺に築城されていたと考えられる。現在、野田城とされる地域からみて北東下福島公園の方向で、堂島川の周辺である。現在でも多くの有志の方が福島城の痕跡を探しているが、明確な場所は解っていない。
石碑
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店、1983年、954–955頁。全国書誌番号:83052043。
- ^ 平井ほか 1981, p. 189.
- ^ 今谷明『戦国三好一族』新人物往来社、1985年、83頁。ISBN 4-404-01262-4。
- ^ a b 平井ほか 1981, pp. 189, 191.
- ^ a b c d e f g 平井ほか 1981, p. 191.
- ^ 船越政一郎 編「摂津名所図会大成 巻之十」『摂津名所図会大成 其二』浪速叢書刊行会〈浪速叢書 第八〉、1928年、340頁。全国書誌番号:47025098 。
- ^ “野田城跡伝承地 ・・・ 大阪市顕彰碑”. 福島区ホームページ. 名所・旧跡. 大阪市福島区 (2023年4月10日). 2023年11月19日閲覧。
- ^ 大阪府西成郡役所 編『西成郡史 第1編 第2編 第3編 第4編 第5編』大阪府西成郡役所、1915年、259頁。全国書誌番号:43018646 。
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